表題の語は、坐禅していた薬山弘道大師(惟儼(いげん))とある僧との問答中にあり、道元禅師は『正法眼蔵坐禅箴(しん)』の冒頭で、その問答を取り上げている。先ずその問答と現代語訳を挙げることにしたい。
薬山弘道大師坐次(ざするおり)、有僧(あるそう)問、「兀兀地思量什麼」〈兀兀地(ごつごつち)に什麼(なに)をか思量す〉(どっかと坐って、なにを思量する(かんがえる)のですか)。
師云、「思量箇不思量底」〈箇の不思量底を思量す〉(思量しないところを思量するのだ)。
僧云、「不思量底如何思量」〈不思量底、如何(いかん)が思量せん〉(思量しないところをどのように思量するのですか)。
師云、「非思量」〈思量にあらず〉(思量ではない)。
ところで、『正法眼蔵坐禅儀』には次のように説かれている。
諸縁を放捨し、万事を休息すべし。善也不思量なり、悪也不思量なり。心意識にあらず、念想観にあらず。作仏(さぶつ)を図する事なかれ。(中略)兀兀と坐定して思量箇不思量底なり。不思量底如何思量。これ非思量なり。これすなはち坐禅の法術なり。
坐禅とは、思量分別を止め、仏に作(な)ることを意図せず、ただ坐ることである。それ故「不思量」と言われるのである。しかし、薬山が「思量しないところを思量するのだ」と言ったように、思量がないわけではない。坐禅中は眠ってはおらず、はっきりとした意識はあり、ものそのものを如実に知るのであるが、善悪を分別するような思量ではないから、その意味では「不思量」と言える。
薬山の答えに対して、僧は「思量しないところをどのように思量するのですか」と問うているが、『正法眼蔵坐禅箴』では次のように述べている。
僧のいふ、不思量底如何思量。まことに不思量底たとひふるくとも、さらにこれ如何思量なり。兀兀地に思量なからんや。
道元禅師は、僧の言葉を薬山への質問とはせず、「不思量底」ということは、古くから言われているが、さらに言うなら「如何思量」であると示している。「兀兀地に思量なからんや」とあるから、坐禅している時に思量がないわけではない。それは「思量」にも「不思量」にも、「如何(いかなる)」にも当たり、「什麼(なに)」或いは「如何(いかん)」としか表現できない思量であるから「如何思量」と言われるのである。つまり、「什麼」「如何」を疑問詞とはしないのである。
このような思量であるから、薬山は「非思量」と答えたのであり、そのところを禅師は、「不思量底を思量するには、かならず非思量をもちゐるなり」(『正法眼蔵坐禅箴』)と述べているのである。
要するに、道元禅師は、薬山とある僧とが同じことを述べ合っている、即ち両者が対等の力量を具えていると解釈しているのである。そのような解釈によれば、思量、不思量、非思量、如何思量は同じものとなり、この問答を訳し直すと次のようになる。
僧問「坐禅している時の思量は、「什麼(なに)」としか表現できない思量である」。
師云「〔その通り〕その思量は不思量である」。
僧云「不思量〔の思量〕とは「如何(いかん)思量」である」。
師云「それが非思量である」。
(文学部教授)