この語は「赤肉団上に一無位の真人有り、常に汝等面門より出入す。いまだあきらめざる者は、看よ。看よ」という臨済義玄の上堂語の中にある。続いて、無位の真人とは何かを問った僧が、臨済に「君は本来仏であるはずなのに、今はただの乾いた糞(乾尿橛)だ」と罵倒されたこともよく知られている。
無位の真人とは、知解分別では捉えられない真の自己とも、仏性、仏心ともいい得るが、臨済がそのように表現しなかったのは、門人が仏心を固定概念化してしまうことを避けたかったのであろう。ちなみに、『従容録』第38則で宏智正覚は「初心未証拠の者」と記し、臨済の「無位」を評価しつつも、あくまでも限定的であるとした。
臨済の「汝等面門より出入す」との表現には、特別な霊魂のような存在が我々の中にあるかの錯誤を生み出す危険がある。しかしこの言葉は、我々が見る、聞く、触るなどの知覚感覚で外世界を認識することを示しているのであり、今の私自身の存在がそのまま仏であることを了得させたい臨済の意図がそこにある。
この「無位の真人」には後日談がある。臨済の弟子とされる定上座が、師に「いかなるかこれ仏法の大意」と問ったところ、禅床を跳び下りた臨済にいきなり一掌(ビンタ)をくらった。電光石火の行動に、上座は何が起こったのかわからず、ぽかんと立ち尽くすしかなかった。傍らに控えていた侍者が、問答終了の礼拝をするよう促したところ、茫然としたまま無我の境地で礼拝せんとした刹那、仏とは自身にほかならないと悟入した。その様子は、積年の真摯な修行が花開いた瞬間(驀然打発)であった。
後に、この定上座が、行脚中の巌頭全后、雪峰義存、欽山文邃の3人と出会い、巌頭に乞われて無位の真人を臨済に代わって説示した。
巌頭、雪峰の2人は臨済の意図を把握して驚嘆したが、若い欽山は「なぜ臨済に問ったその僧は非無位の真人と返答しなかったのか」とつぶやいた。これを聞き逃さなかった定上座は欽山の胸ぐらをつかみ、無位の真人と非無位の真人と何が違うのかいってみろと迫った。臨済の意図は、仏とは自分自身のことを指すのだと示す点にあるから、表現としては無位に限定する必要はないのであるが、知解を離れて自身の真実を自ら把捉することを意図した言葉であるから、「無位」を分別で捉えてはならないのである。
無位の立場は、宏智がいうように「初心にして、いまだ自己をあきらかにしていない(未証拠)者」へのことばで、ひたすら修行を継続する(往相)立場であり、一方、非無位は、達悟した者が此岸に回帰(還相)して、人々を化導する立場にあたる。
欽山の客気は巌頭、雪峰の2人が取りなして事なきを得たが、欽山は果たしてここで「真の自己」を掴み得たであろうか、乾尿橛のままであったであろうか、などとこの話を楽しむのは早計である。
この話が加えられた意図は、欽山に「非無位」を語らせることが目的であり、臨済が「看よ」と云ったことを受けて、「看了」したなら「非無位」でなくてはならないと補ったのである。単に後日談と軽んじたなら、「無眼子」と罵られるであろう。公案はすべてに抜け目ないのである。
(文学部教授)