塼というのは、仏殿や禅堂などに敷かれる床材で、屋根瓦と同じ材質のものである。"磨塼作鏡"とは、塼を磨いて鏡にする、という意だが、当然、塼を磨いても鏡になるはずがない。この語は、唐代の禅僧・馬祖道一が師の南嶽懐譲と交わした問答に出てくる。それはこんな話だ。
馬祖が坐禅に励んでいると南嶽がやって来て訊ねた、「あなたは坐禅をしてどうしようというのだ」と。馬祖は「仏になろうと思います」と答えた。すると南嶽は、一枚の塼を取って、石の上で磨き始めた。それを見た馬祖は「何をなさっているのですか」と言うと、南嶽は「鏡にしようと思う」と答えた。馬祖は不思議に思い「塼を磨いても鏡にはできません」と言うと、南嶽は「坐禅をしても仏にはなれないぞ」と切り返した。その意味が解せない馬祖に対し南嶽は、「牛車が進まない時、車を叩くのと、牛を叩くのとどちらが正しいのだ」と問う。馬祖が答えないと、南嶽はこう諭した、「おまえは坐禅を学んでいるのか、それとも坐仏を学んでいるのか。もし坐禅を学ぶというのなら、禅は坐ったり横たわったりすることではないぞ。もし坐仏を学ぶというのなら、仏は定まった形とは限らないぞ。仏は、何ものにもとらわれない真理として捉え、取捨してはならない。おまえが、もし坐仏するのなら、仏を殺すことになる。もし坐る形にとらわれるのなら、真理に到達できない」と。
この問答で、南嶽は馬祖の坐禅、坐仏へのとらわれを戒めたとされている。坐禅は釈尊以来、悟りに至る手段として、仏道修行者によって日々実修されてきた。そうであるから、馬祖が坐禅をすれば仏になる(悟りに到達する)ことができると、考えたのも当然のことである。しかし、そのように考えることは、仏になるには坐禅をしなければならないという固定観念を生み、坐禅に執著することになる。禅門では無所得・無所悟を肝要とする。仏道修行者の大目標は、さとりに至ることであるが、それを目標としない(とらわれない)あり方が、求められる。なぜならば、悟りは一切の煩悩(執著)を超越した境地であり、何かを目標にすることは、煩悩を持つことになる。そのため、悟りを目標にしてそれに向かって邁進する限り、真の悟りには到達できない。そのような姿勢が、馬祖の言葉や態度に見え、南嶽は戒めたのだ。
これに対し、道元禅師はこの問答を次のように解釈している。南嶽の「もし坐る形にとらわれるのなら、真理に到達することはできない(若執坐相非達其理)」ということばを、「なんじ、執坐相は非達の其理なり」と読み、「執坐相」は、坐禅に徹底する意に、「非達其理」は、既に余すところなく真理に到達している意に解釈している。道元禅師の立場からは坐禅はあくまでも仏行で、それに徹底することが真の悟りだというのだ。
今年、ノルディックスキーW杯の女子ジャンプで、高梨沙羅選手が史上最年少で個人総合優勝を決めた。日々の精進が実を結んだわけだが、決定直後のインタビューで彼女は、「決まったんですか」と逆に質問していた。優勝を意識しなかったことが好結果に繋がったようだ。このことは、目標にとらわれず、自己の道に徹底することの大事さを示していると言えるのではないだろうか。
(教養部准教授)