私たちは、日常生活の中で雑用や雑務と表現したくなるような仕事を、やらなければならない時がある。
その時私たちは、その仕事に対して、「やりたくない」などと考えることが多い。しかし、このように考えることは、決して良い結果をもたらさないことが多い。なぜなら、そのように考えると更にその仕事が嫌になり、心に余計な負担を感じるからである。
では、一体どのように考えればよいのであろうか。
1223年、24歳の道元は真の仏道を求めて、中国に渡った。道元が主に修行に励んだのは、中国禅院の五山の一つである景徳寺であった。そこで、「典座(てんぞ)」と呼ばれる修行僧の食事係の僧侶に出逢ったことが、一つの衝撃であった。標題の「他は是れ吾にあらず」は、景徳寺で学んだことを記した『典座教訓』に収められている言葉である。
夏のある暑い日、昼食を終えた道元が、自分の部屋へ戻ろうと廊下を歩いていると、用(ゆう)という年老いた典座が、仏殿の前で椎茸(一説には海藻)を日に干していた。ジリジリと強い日差しが照りつける中、笠も着けず、背骨が弓のように曲がり、眉毛は鶴のように真っ白で長かった。
道元は、典座が行なっていた仕事が気になり声をかけた。道元が年齢を訊ねると、「68歳」と答えた。続いて道元は、「高齢のあなたが、どうして若い修行僧や、お手伝いをする人の力を借りないのか」と質問した。すると老典座は、「他は是れ吾にあらず」と答えた。
つまり他人は他人、自分は自分である。自分は自分に与えられた仕事を精一杯する。それが、禅の教えだという意味である。
そこで道元は、「それは分かった。しかし、涼しくなった時に今の仕事をやればよいのではないか」といった。それに対して、老典座は、「さらに何(いずれ)の時をか待たん」と答えた。後にしようと言い訳をしていたら、貴重な時間を逃してしまうという意味である。
私たちは、「どうしてこんなつまらない仕事を自分がしなければならないのか」などと愚痴をこぼすことがある。
しかし、道元は老典座との短い会話の中で次の三つのことを学んだ。第一に、自分に与えられたことは、自分でやらなければならないこと。第二に、修行は他人任せにできないこと。第三に、後日に延ばすのではなく、その時その場で精一杯行なうことが、禅の教えであるということであった。
今年、サッカー日本代表の本田圭佑選手(27歳)が、イタリアのセリエAのACミランへ、VIP級の扱いで移籍した。本田選手は記者会見で、「セリエAでエースナンバーの10番を着けることが、小学生からの夢であった」といった。続いて彼は、「僕自身がここに辿り着くまでには、非常に時間がかかった。しかし今、子供たちに伝えたいことは、一つずつ階段を上れば、いずれ自分が願う夢を叶えることができるということだ」と語っていた。
このことは、道元が老典座から学んだ、自分でやらなければ自分の修行にはならないこと、いつかやろうと思っていたら結局できるものではなく、その時その場を全力で生きる大切さの教えに通じると思われる。筆者自身、人生を生きるにあたり、老典座の言葉の重さを改めて痛感する。
(禅研究所研究員)