愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅語に親しむ  平成26年度

天上天下唯我独尊(著・木村文輝)

禅語とは何か。その定義を「禅僧の言葉」とするならば、この言葉は「禅語」とは言えないかもしれない。しかし、「仏教の極意を伝える言葉」とすれば、これはまさに「禅語」にふさわしい。

「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」。釈尊が誕生直後に発した言葉と伝えられている。だが、いかに釈尊といえども、生まれたばかりでこのような言葉を語ったとは思えない。また、この伝承自体が、古い仏典には記されていない。つまり、この話は後世の人々の創作と言わざるを得ないのである。

では、なぜこのような伝承が生まれたのか。そして、この言葉をどのように解釈したらよいのだろうか。ある人は、この言葉は成道(じょうどう)直後の釈尊が、「自分に師匠はいない。自分こそが最高の師匠である」と語ったという記録にもとづいていると考えている。歴史的にはそのとおりかもしれない。けれども、それだけの理由であれば、この言葉を仏教徒達が長年にわたって大切に伝えることはなかったであろう。 この一句を理解するために、私は釈尊の遺言に注目したいと思う。「自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法(真理)を拠り所として、他のいかなるものをも拠り所としない」という、いわゆる「自灯明、法灯明」の教えである。私達が暗闇の中を進む時、その道を照らす灯火が必要となる。それと同様に、未来に向けて歩み続ける私達は、自らと真理を拠り所にせよという教えである。

私達は、日々の生活を送る中で、常に様々な選択を迫られる。朝食に何を食べるかに始まり、その選択は数えきれない。そうした中で、時には人生を決する重大な岐路に立つこともあるだろう。その時、人は自らの決断を下すために、両親や先生、友人等、様々な人に相談するだろう。しかし、誰に相談しようとも、最後は自分で決断しなければならない。そして、決断した以上、その責任は自分で負わなければならない。他人に責任を転嫁したところで、それによって生じる楽苦は、自分が引き受けるしかないのである。

つまり、何らかの決断を下す際に、最終的な拠り所となるのは自分しかないのである。それ故に、「自らをたよりとする」ことが必要なのであり、「天の上にも天の下にも、私自身が決断を下すための最終的な拠り所としては、唯だ我れ独り尊い」ということになるのである。

けれども、たとえ自らが決断を下すとしても、それが独りよがりのものであってはならない。判断を下すためには、様々な情報に接し、多くの人の助言に触れながら、できる限り客観的、総合的な視点を持つことが不可欠だろう。それが、「法(真理)を拠り所とする」ということである。

さて、このように解釈するならば、釈尊はその生涯の最初と最後に、同じことを語っていたことになる。そうだとすれば、私達はそこに、この言葉を伝えてきた仏教徒達のメッセージを読み取ることができる。すなわち、釈尊の教えの核心は、自らが信頼できる自己、自らにとって最終的な拠り所となるべき自己を常に養っておくことを説く点にある。私達は誰もが自らの一生を生きている。それ故に、誰もが自己を大切にしなければならない。この点にこそ、仏教の説く「いのちの尊厳」が存すると言うことができるであろう。(文学部教授)

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