表題の言葉は、道元禅師の『正法眼蔵』辦道話に見られ、「一つのことに専心することがなければ、一つの真実の智慧に通達することはない」ということを教えています。
この言葉が見られる箇所で道元禅師は、「仏道修行において、坐禅を修する以外に他の修行を行っても支障はないか」という問いに対し、「自分が中国にいた時、師である如浄禅師に悟りの極意を尋ねたところ、『西方インドから東方中国の昔から今に至るまで、仏印(仏心印)を正しく伝えた祖師たちが、誰もそのような他の修行を兼ね修したということは聞いたことがない』と仰った」と述べています。仏印(仏心印)とは、師が弟子に対して仏の悟りを得たことを証明し認可するもので、印可ともいわれます。道元禅師は、師である如浄禅師から、インドより当地まで、古来綿々と仏法を正しく伝えてきた祖師たちは、ただひたすら坐禅に専心してきたことを教えられ、それが真の悟りの極意であることを学びました。この教示が、道元禅師の「只管打坐」の教えに結実したことは疑いないでしょう。
また、表題の言葉は、『宏智録』(第3巻)に「一事に因(よ)らざれば一智を長ぜず」とあるのを踏まえたものといわれます。取り組む事柄が増えると、それらの知識が増えるばかりで、肝心の事柄が疎(おろそ)かになることを戒めています。私たちの身近な諺(ことわざ)にも、「二兎を追うものは一兎をも得ず」と述べられていますが、様々な物事に手を出していたら、結局、何一つ身に付かなかったということは、しばしば経験されるものです。また、多くの事柄についての知識を得ても、それらは浅い理解となり、深く奥行きのある智慧を得ることが得ることができないということも、注意されねばなりません。
なお、禅の教えにおいて、坐禅が最も重視されることは言うまでもありませんが、坐禅以外の修行が否定されているわけではないことも、同時に大切なことと思います。道元禅師は、食事から掃除に到るまで、日常の全ての実践を修行と考えました。どんな修行であっても、それに専心すれば悟りを得られることは、釈尊に始まる仏教の伝統において、しばしば説かれています。釈尊の時代に在った周利槃特(しゅりはんどく)(チューダ・パンタカ)という人は、釈尊の教えを記憶することも、理解することもできませんでした。釈尊は、彼に箒(ほうき)を与え、掃除に励むことを教えました。彼はひたすら掃除に専念し、身近な塵を払うことから心の塵を払うことを体得し、悟りを得たと伝えられています。私たちも、今取り組んでいる物事一つに一生懸命取り組むことで、真の智慧を得ることができると考えると、勇気づけられるようではありませんか。
現代社会において、私たちは、知らず知らずのうちに様々な情報に振り回され、一つの物事に集中して取り組むということが難しくなっているのではないでしょうか。道元禅師は、「無益の事を行(ぎょう)じて徒(いたずら)に時を失うなかれ」(『正法眼蔵随聞記』)とも述べています。真の智慧に到達するには、一つの事柄に集中しなければならないという言葉は、慌ただしい日々の生活において忙殺されがちな私たちに、一つの指針を与えてくれそうです。
(文学部准教授)