愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅語に親しむ  令和3年度

禅(ぜん)は菩薩(ぼさつ)の心中(しんちゅう)に在(あ)りて
波羅蜜(はらみつ)と名(な)づく(著・大松久規)

「ストレスフリー」が叫ばれて久しい昨今、西洋式マインドフルネスが流行し、ヨガや瞑想が注目されるなど、身の回りには「禅のようなもの」「禅らしきもの」が溢れている。果たして、「正しい禅」とは何だろうか。

それを考える手掛かりとして、冒頭の一文を採り上げたい。文中の「菩薩」とは大乗仏教の修行者であり、「波羅蜜」とは完全、完成を意味する。

この一文は、いわゆるの「禅語」ではない。『釈禅波羅蜜次第法門(しゃくぜんはらみつしだいほうもん)』という、坐禅の方法に関する講義録に記されている。今からおよそ1500年前、「震旦(しんたん)の小釈迦」(中国の釈迦二世)と評されるほどの高僧だった天台智(ちぎ)(538―597)によって示された。

智は冒頭の一文の直前で次のように説示する。

禅の一字の如きは、凡夫(ぼんぷ)、外道(げどう)、二乗、菩薩、諸仏の得る所の禅定、通じて禅と名づくることを得。

すなわち、凡夫(仏教の道理を解していない者)や外道(仏教外の修行者)の禅定であっても、菩薩や仏の修する禅定と同様、一律に「禅」とよばれる。換言すれば、「禅」には「正しくない禅」も含まれるのである。

仏教外の「正しくない禅」とは何か。智による講説の基となった『大智度論(だいちどろん)』には、外道禅の三種の過失が示されている。

外道禅の中、三種の患(げん)有り。或いは味著(みじゃく)、或いは邪見(じゃけん)、或いは憍慢(きょうまん)なり。

禅の境界(きょうがい)に執著(しゅうじゃく)してしまう「味著」、誤ったものの見方である「邪見」、得意になってたかぶる「憍慢」である。

さらに、二乗(にじょう)とよばれる修行者がいる。彼らは外道でなく仏教の修行者であり、一定の悟りにも到達している。しかし、二乗でも「禅波羅蜜」を行ずることができない。

阿羅漢(あらかん)、辟支仏(びゃくしぶつ)、味に著せずと雖も、大悲心(だいひしん)無きが故に禅波羅蜜と名づけず。又復(また)、尽く諸禅を行ずること能わず。

二乗(阿羅漢・辟支仏)の修行者は、外道のように禅の境界に執著することはないが、「大悲心」すなわち利他(りた)の心がないために、「禅波羅蜜」を禅語に親しむ行ずることができない。

それでは菩薩や仏が修する「禅波羅蜜」とは何か。

諸禅の中において、衆生乃至(しゅじょうないし)昆虫まで、常に慈念(じねん)を加えて忘れず。

この世のあらゆる生きものに対して、慈しみの念を加えて忘れない禅である。

もちろん、他者のことばかり考えて己を疎かにするのは本末転倒である。他ならぬ智自身が臨終に際して、「他の為に己を損なった」と述べた記録が残っている(『隋天台智者大師別伝(ずいてんだいちしゃだいしべつでん)』)。また、逃れようがない外界からのストレスに直面した際、それを自己の変革によって乗り越えようとする姿勢自体は仏教的である。しかし、「ストレスフリー」を目論んで参禅するとき、あまりに自己中心的になっていないか。

最近の心理学分野の研究によれば、倫理観の伴わないマインドフルネスが他者への攻撃性を高めると報告されている。

いずれにせよ、「正しい禅」「禅波羅蜜」は難しい。「菩薩の心中」に修する禅が「波羅蜜」であるとしても、その実践はまことに簡単ではない。肝要なのは、自身に対して「正しい禅を行じているか」と問い続けることである。

(教養部講師)

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