愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅語に親しむ  令和4年度

この一日は、をしむべき重宝なり(著・横山龍顯)

わたくしごとで恐縮だが、昨年の10月末、顔に物がぶつかる事故に遭(あ)った。顔に大きな衝撃が走った途端、口の中から「カラン」というなんとも嫌な音が聞こえてきた。恐る恐る口腔内(こうくうない)の異物を確認してみると、案の定、歯の一部であった。鏡で自分の顔を見てみると、上の前歯が見事に折れていた。パニックめいた心持ちに襲われたものの、すぐに歯科医院を探して受診した。

最初は欠けた歯を元通りにくっつけてもらえばよかろうと、気楽に考えていたが、欠損箇所から神経の一部が露出してしまっていたため、神経(歯髄(しずい))を抜かなくてはならないと告げられ、すぐさま神経を抜いた。神経を抜く場合、抜いてしまえば終わりではない。そこから神経の通っていた管(くだ)(根管(こんかん))の治療を行うこととなる。この治療には3ヶ月ほどを要するため、しばらく通院した。治療の間は歯が欠けたままとなるため、食事や会話に少し不便が生じたものの、幸い治療は無事裏(ぶじり)に進み、今年の1月末にかぶせ物を付けることができた。

ところで、このなんとも情けない経験を振り返ってみると、自身のとった行動から、案外に宗教的な意義を見出すことができるのではないかと感じている。

事故の瞬間に話を戻そう。親族の不注意により、私の顔に物がぶつかったのであるが、私はすぐに「診察してくれる歯科医院を探す」という行動をとった。歯科医院を探す前に、物をぶつけた親族に対して当たり散らしてみたり、恨み言をぶつけたりしてから、冷静になって歯科医院を探し始めても不思議な状況ではない。しかし、幸いそうした行動を取ることはしなかった。中部経典(ちゅうぶきょうてん)の『賢善一喜経(けんぜんいっききょう)』では、今日というこの日、つまり、「いまを生きなさい」と教える。なぜなら、私たちが日常的に抱く負の感情というものは、往々にして「過去への後悔」や「未来への不安」といったように、過去・未来に対するものがほぼすべてを占めるからだ。反対に、「いま」とか「この瞬間」に対して恐れや不安を抱くことはむしろ至難である。にもかかわらず、私たちは、過ぎ去った過去や、禅語に親しむいまだ来てもいない未来に心が捕らわれてしまい、足下の「いま」をおろそかにしてしまっている。道元禅師も「この1日は、をしむべき重宝(じゅうほう)なり」(『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』「行持(ぎょうじ)」)と述べ、「今日」というこの日、「いま(而今(にこん))」というこの瞬間を懸命に生きることを繰り返し説いている。

歯が折れたことに気がついた時、「歯が折れる」という出来事は、すでに過去のものとなっている。それを引きずり、怒りに捕らわれたり、悔やんだりしても、もう遅いのである。歯が折れてしまったのならば、治療をしてもらうということが、その瞬間に行うべきことである。そのため、私は急ぎ歯科医院を探したのである(あまりに衝撃が大きすぎて、怒ることを忘れていただけかも知れないが)。欠けた歯は元に戻ることはなかったけれど、大事に至ることなく、穏やかな日常が戻りつつある。

禅思想においては、いかなる状況に逢著(ほうちゃく)したとしても刷新的(さっしんてき)に自己を適応(てきおう)させて生きていくべきことを説くが、それは決して難しいことを言っているのではないと思う。歯が折れたら病院を探すように、今なすべき当たり前のことを一所懸命に行っていくことの重要性を教えてくれているのだと感じる。

(文学部講師)

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