道元は、只管打坐(しかんたざ)の厳しい禅者であるとともに、極めて哲学的、詩的思索能力に長けていました。とりわけ、主著『正法眼蔵』を書き残したことによって、道元は日本思想史上稀な地位を占めるにいたりました。
しかしながら、道元がいかに思索的に『正法眼蔵』を書いたとしても、その思索はどこまでも宗教的な安心(あんじん)解脱、身心脱落のために展開されるべきであり、知と行の合一、理論と実践の統一のもとに語られるものでなければなりません。禅は元来、最も強力に修行・実践を打ち出すべき宗教でありますから、必ずしも哲学的思弁的である必要はないわけです。それにもかかわらず、道元が『正法眼蔵』を書き残したところに、文化原理としての卓越的な意義があります。
75巻本『正法眼蔵』の第1巻の題名をなす「現成公案(げんじょうこうあん)」という語は、道元の禅仏教の根本思想を表現しております。「現成公案」とは、目前に現れているものが、そのままで絶対の真理であることを意味しています。ただし、それが真に自己の修行の問題に入り込んでこなければなりません。ここに、道元独特の新文化原理としての『正法眼蔵』の面目躍如たるものが具現されているわけです。
それゆえ、「現成公案」においては、ことさらに真理と自己との出会い、現代風に言えば、自然と人間の関係が重要な問題となります。狭い有限な視野しか持っていない自分自身の立場を忘れて、自分の見ているものが唯一絶対の真理であると思い込むと、とんでもない錯覚におちいります。
仏教的真理の世界においては、人間的自己を尺度にして自然全体を考えるのは誤りであって、むしろ逆に自己が消えて自然全体、それも人間にとつて不可知なる根源的自然、いわゆる人間と自然とが分かれる以前の、あるがままの自然、「おのずからしかり」が基準となるとき、初めて悟りが現前するのです。
そこでは、私自身の存在・行為・認識・意識・感情のすべてが「仏性」の現前そのものと一体とならなければなりません。「仏性」とは、「心」あるいは「魂」のごときものではなくて、無限の命としての自己の真生命の働きであります。それゆえにこそ、「一切が衆生であり、悉有が仏性である」のです。
仏教では一般に、無我無心ということを根本原理として、個我的エゴイズムを斥けます。仏教における自己は、世界や宇宙と一体化した自己なのであります。また、時間においても、たとえば1日は午前と午後、1年は春夏秋冬という区別がありますが、これらの時の違いは人間の心の働きのなせるわざです。時もまさしく心であり、自己であります。道元的思惟にまかせれば、世界と時とが不二一体、「有即時」であると語られているのです。
時間は一般的に過ぎ去り行くものとみなされますが、他方において、時間は過去と現在と未来とを連続させるものです。この時の連続性(経暦(きょうりゃく))とは、各々の瞬間、瞬間が本来の面目を発揮しているということ、つまり、単に水が流れ、事物が時を経めぐるということではなくて、あくまで自己の全力投球がそこにあらんかぎり尽くされているということ。そのことを学ばなければならないのです。