『正法眼蔵聞書抄』は、「聞書抄』あるいは『御抄(ごしょう)』と呼ばれ、道元禅師の直弟子の詮慧(せんね)が、『正法眼蔵』の提唱を椅子下で聞書きしたものであります。しかし、単なる筆記ではなく、これに注を加えた立派な注釈で、もと天台僧であった詮慧が、中古天台の聞書形式を『眼蔵』解釈に持ち込んだものとされ、師の詮慧が『眼蔵』の『聞書』を書いたので、これを土台に弟子の経豪は『抄』を書いたことになります。同時に、詮慧も経豪も、道元会下となる前は共に叡山の学僧であり、当時の主潮である恵心流を学んだところから、『聞書』にも『抄』にも、本覚法門の用語が頻出します。それは口伝(くでん)法門と呼ばれる中古天台独自のものであります。
そのため『聞書』は、常に教を意識して書かれております。その教も、当世流行の恵心流が下敷きになっており、教に足をとられた注がハッキリ見えてくる反面、本覚法門といかに宗意を弁別するかという苦心が見て取れます。しかし、このような教の思考を全く用いないで、『眼蔵』の注釈が書けるものでしょうか。近時の『眼蔵』解説は花盛りですが、宗門の中でも宗意と教意とのボーダーラインを弁別しない『眼蔵』解釈にお目にかかることが多くあります。
この問題を抱えて『眼蔵』注釈に最初に立ち向かったのが、詮慧であり、そこには教意との弁別、いうなれば本覚法門と道元禅とをいかに書き分けるか、その辛苦は想像を絶するものがあります。今日云うところの『眼蔵』解釈の宗意からの基準づくりに最大の努力をしたことになります。しかしながら『聞書』の評価は、どういう訳か今日まで全くされておりません。
『眼蔵』解釈の基準を宗門の立場から構築すると云っても、それは、このようにしてはならないガードラインを地道に設定してゆくしかありません。その手掛かりが、『眼蔵』に直接する詮慧の『聞書』であって、彼は宗意と教意との聞き分けを通して、具体的に本覚法門と道元禅との弁別に成功しているのであります。この『眼蔵』解釈の基本線は、宗門として守らなければなりません。極言すれば現時では、本覚法門批判を抜きに『眼蔵』解釈は成り立たないのです。『聞書』成立時点に、『眼蔵』解釈をひとたび返して見るべきであると思います。
 唯一『聞書抄』が遺されたことによって、道元禅師生存中の『眼蔵』理解の片鱗を窺知することが出来るのですが、それが果たして『眼蔵』を把握する正道であるかと言えば、否でありましょう。もし聞書方式で「眼蔵』が掴まえられるのなら、その最適の位置にあった二祖懐奘が、まっ先に『聞書』を撰したはずでしょうが、懐奘はそれをしようとしませんでした。これが正解でありましょう。『眼蔵』は注釈を施してはならないのです。それを一番よく知っていた懐奘は、ひたすら『眼蔵』そのものの嗣続を試み只管打坐に徹したのであります。
しかし、『聞書抄』を抜きに今日、われわれ理解(りげ)の徒が、『眼蔵』を理解することは不可能でありましょう。詮慧が危ない橋を渡って教に踏み込んで、本覚法門と道元禅との書き分けに努めたからこそ、辛うじて今日本証妙修(ほんしょうみょうしゅ)についても、本覚法門的解釈を禦ぐことが出来るのであって、『眼蔵』解釈の基準なるものを論ずることが出来るのも、ひとえに『聞書抄』あってのことでありましょう。その意味では、詮慧も経豪も、宗史上掛け替えのない大きな仕事をしているのであります。