愛知学院大学 禅研究所 禅について

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講演会レポート 平成12年度

開かれたアイデンティティー ―仏教の役割を求めて―国際日本文化研究センター所長 河合隼雄

 先の小渕内閣で発足した「21世紀日本の構想懇談会」では、いろいろな分野の人が集まって21世紀に日本人はどう生きたらいいのかを話し合いました。その時に、すべての分野で共通して出された課題が「個の確立」でした。なぜなら、日本人には個の確立がなさすぎるからです。

 個を確立していない日本人のマイナス面は、作家の柳田邦男さんが書かれた『この国の失敗の本質』という本を読むとよくわかります。その中には、太平洋戦争を始めた時に、誰のもとにその責任があったのかわからないとか、バブル経済が崩壊しても、その責任を取っていない人がたくさんいるということが詳しく述べられています。要するに、個人としてはっきりと決断し、その責任を取ることを日本人は行ってこなかったのです。

 こうした失敗を二度としないようにするために、この懇談会は開かれました。その結果、一人一人が自分をはっきりと出せる人間を作ろうということで意見が一致したのです。でも、これは難しいことです。なぜなら、日本人が好きなのは、むしろ個性を無視することだからです。

 しばしば、これからはグローバリゼーションの時代だと言われます。けれども、グ口ーバリゼーションというのは、世界が一様になることではありません。世界がしっかりとつながっていることです。しかし、日本と西洋とでは、そのつながる方法がまったく違っています。

 日本では、まず始めに「私」をスッと消して、そこから周囲とのつながりが始まります。ところが西洋では、まず始めに「私」がしっかりとあって、その私と私との間でつながりが生まれていきます。ですから、皆さんが外国の人と付き合う時には、「私」というものをある程度待っていなければ失敗してしまうのです。

 しかし、そんなことばかり言っていると、日本人のアイデンティティーがなくなってしまうという批判もあります。でも、アイデンティティーというものは、はじめから「私は私だ」という形であるわけではありません。むしろ、生涯にわたって続く無意識的な成長の過程、「私はこういうものだ」ということを、一生かかって作っていくプロセスがアイデンティティーなのです。ですから、個の確立ということを考えながら、日本人としての生き方を考えていくことが大切なのです。

 そこで、日本人が個を確立しないで生きてきた背景を考えると、仏教の思想に行き当たります。と言うのも、「私」というものは、そもそも存在しないというのが仏教の捉え方だからです。それよりも、仏教ではつながりの中で物事を考えることを説いています。

 例えば、私がここで梅干しを食べると、それを見ているだけで唾液の出てくる人がたくさんいると思います。これは、私と皆さんとがつながっているからです。そのつながっている状態を、もっとつながっている意識で見ようとするのが仏教の立場です。

 けれども、それは普通の意識とは違う意識です。明晰性を失うことなく意識をどんどん変えていくと、いろいろなものがつながっている世界が見えてきます。そうずると、最後には「花」とか「河合」というような名前もついていない、存在そのものの世界にまで降りていきます。そして、それがはっきりと認知できるようになるのです。

 そうなると、物事を観察する態度も変わってきます。西洋では世界を切り刻んで観察するのに対して、仏教では世界をつなげて見ようとします。つまり、「河合が花を観察している」という西洋流の態度が、仏教では「あなたは花してますね。私は河合してますよ」ということになります。その結果、花と河合は一歩近づくことができるのです。

 私の専門は臨床心理学ですが、相談に来た人の話を聞いている時の私の態度は、こうした仏教的な態度に非常に近いと思います。なぜかと言えば、相手と私が一緒になって、つながっている世界の中で話を聞いているからです。

 例えば、「なぜ私の恋人は死んだのでしょうか」という相談を受けた時には、私もその人と一緒に恋人の死を悼むことが大切です。あるいは、「私はもう死にます」という人が来ても、その人の世界の中に入って、ただ黙って聞いているだけです。相手が話したくないことを聞いたり、自分で勝手に物語を作ったりしないで、相手とずっと一緒にいることが大切だからです。

 このように考えると、日本人は日本的、仏教的な素晴らしい部分を大切にしながら、同時に西洋のよい部分を取り入れて、個を確立した人間になる必要があるのではないかという考えが浮かんできます。そして、この考え方は明治時代の「和魂洋才」にも通じるものです。

 しかし、それは最初からしっかりとある和魂の上に、洋才をボンと乗せることではありません。自分の和魂がどういうものかはわからないけれども、その和魂を洋才で磨いていこうということです。そうすることによって、自分のアイデンティティーを死ぬまでかかって作っていくことが必要ではないでしょうか。私はそれを、「開かれたアイデンティティー」と呼んでいるのです。

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