私が取扱う仏教は中国の文化の一つとしての仏教です。文化とは、大まかには、人間の営みであり、そこには当然、時間的、空間的、そして担い手としての人間が介在せざるを得ないわけです。ですから同じ仏教と言ってもインドと中国とではそれなりの違いがあるわけです。
ですから、お釈迦様の教えを2500年間変わらずやってきているわけではなく、大きな変化をとげています。その変容をハナから否定してもあまり意味があるとは思えません。むしろ変容させていったところに何か意味がないか、そして変容の過程に人間の営みを見て、どんなふうに人々が1つの文化を受容していったかに、着目すべきです。
今回私は、文化の変容の1例として葬送儀礼を考えてみたいと思います。現代社会では、お葬式が、非常に大きな問題として取り挙げられています。それらの問題にあたる時、いきなりお釈迦様や道元禅師をあてはめようとしても無理な話です。そこではむしろ、どこまでなら変容が許され、どこからはもっと工夫をすべきかという提言をする方が、より建設的かと思います。
そこでまず、お釈迦様の葬儀をめぐる態度を取り上げてみようと思います。お釈迦様は亡くなるその年、阿難に、「お前たちは修行完成者の遺骨の供養にかかずらうな」と言われました。お釈迦様が入滅した時、摩訶迦葉が駆けつけると、薪の山にお釈迦様の遺骸が乗っており、その周りを右遶三匝して御足に頭をつけて礼拝し、500人の修行僧も同じようにしたところ、自然に薪が燃え上がったと、伝えられています。確かにお釈迦様は、お前たちは遺体の処理に関わるなと言われ、事実しなかったのかもしれませんが、どこかで関わっていくのです。最後に火をつけるところを象徴的に読み取れば、出家者の摩詞迦葉が来なければ始まらなかったわけです。
古来インドでは死者儀礼を無視して、宗教は成り立ちません。インド全体がそういう風土の中で動いていく以上、丁寧にはしなかったとしても、仏教が全く葬儀をやらなかったとは考えられません。
インドに渡った中国僧の玄奘や義浄は、当時のインドの葬送儀礼が中国におけるそれと大きく異なっていることを報告しています。中国には儒教に基づく非常に丁寧なお葬式があり、これをきちんとやることが親孝行の証なのです。問題は玄奘らがインドまで行って、「本場の仏教では、儒教のような葬式はやらんのだな」と、理解してきたことを、後の人々がどう受止めたかです。
玄奘は自身の葬儀では、インド的・仏教的な簡素なやり方を望んでいたようですが 実際には、遺言が一方では守られながらも、荘厳な葬送行列を行うなど、あんな偉いお坊さんを、簡単な葬式で済ますべきではないというところがあったようでこれは折衷案・合理化案であります。ここまでくればインド仏教流の葬送儀礼にもどるよりも、中国仏教流の葬送儀礼の成立が摸索されるようになるのは当然の流れでしょう。1103年の『禅苑清規』には、亡僧と尊宿のお葬式のやり方が収録されています。これは、坊さんの葬式がマニュアル化されたということで、お葬式が極めて重要な営みとして、禅宗寺院の中で定着していったことに他なりません。そういうふうに中国的な営みを全部抱き抱えながら、禅宗教団が展開していくのです。『禅苑清規』尊宿遷化の項では、一番弟子は遺体が納められている龕の帳の側で、喪服を身に付けて師の遺骸を守る、としています。これは、儒教的であって、仏教ではないのです。慧能や雪峰や雲門も自分の死後について、「喪服を着るな」「泣きわめくな」「やたらと丁寧な葬式をするな」と口をすっぱくして言っています。しかしそれは裏を返せば、そういうことをやっていたことになります。そうなると、もはや「仏教的なお葬式は、どうあるべきか」と考える暇もなく、慣例に従って喪服を着るというパターンが一般化してしまいます。何より清規に書かれてしまえば、やらざるをえないのです。
1020年成立の『釈氏要覧』では、喪服の規定はないけれど、結局、師匠と弟子の関係は「恩深く義重い」がゆえに喪服を着る、と現状を追認しますし、3年の服喪を認めており、その際に著る法服も規定しています。南宋代の『校定清規』では、葬儀の配役によって異なる喪服が配られています。『勅修百丈清規』では、衣と同時に頭巾も配られています。儒教では父親を送った長男は、お葬式用の「喪冠」を被ります。坊さんが頭巾を被るということは、どうも儒教側にかたより過ぎではないかと考えます。
私は、禅が中国で生まれ、そこで育って、花開いたということを否定するものではありません。当然それは、インド仏教そのものではなく、私どもが考える以上に中国的ではないかと思っています。
例えば1004年に成立した『景徳伝燈録』では過去七仏に始まる歴代のお坊さんの名前が書かれていて、西天の第28祖のダルマさんが中国にやって来て禅の教えを伝え、その教えが時代とともに広まっていったと主張されます。私は最近、『伝燈録』などの燈史が成立する背景には極めて中国的な「宗族」という考え方が、色濃く反映しているのではないかと考えています。宗族というのは、同族という意味で、先祖を1つにし、それから真っすぐ伝わってくる1つの家族としてのまとまりのことです。これは縦では先祖への祭りを1つにし、横では仲間意識なのです。
このように両者の関係を捉えてみると、そういうものが必要な禅宗教団は、一体どういうことだったのか。喪服を着て棺の側に立って師匠の遺体を守るのは、その役目を担った自分こそが正当な後継者だということを、葬儀に参集した人々に向かって高らかに宣言することであります。それは、血のつながりを仏法のつながりに置き換え、お釈迦様からの縦の流れは、自分のところヘ来るんだ、そして横では何世だという主張なのです。つまり中国固有の文化の発想と仏教が合体した結果が、燈史の世界につながっていったのではないでしょうか。
中国の文化、あるいは風土の中で、禅が生まれたわけですから、中国的なものを否定しても意味があると思えません。過去の歴史において、仏教は難しいことを説くだけではなく、極めて現実的な側面を持ちながら、時代に押し流されて来ました。押し流されて来たことへの反省は、いまさまざまな分野で行われています。結局そこでは、変化させていいものと、変化させていけないものを弁別する力を、我々自身の中で作り上げていくことが迫られるのではないでしょうか。そしてそこでは本来的なあり様というものと、自分自身の生き方を常に照らし合わせながら、現実面へ対応していく柔軟性というものを持ち合わせないと、時代の要請に応えるような宗教というのは出て来ないと思います。