3年程前、曹洞宗で道元生誕800年の慶讃事業を行い、750回大遠忌に繋げていこうという企画があり、その集大成として道元禅師のシンポジウムをアメリカのスタンフォード大学で開催しました。それは、ある教授の「アメりカの禅も、もう日本から独立してもいい」という言莱で締め括られましたが、我々は「道元も禅もこれ程アメり力社会で認知されているとは」と意気揚々引き上げて来ました。
その報告会で、ある人が「道元禅師シンポジウムが行われて、意気揚々と帰って来ているようだが、日蓮や親鸞や法然は知っているが、道元はどんな人かわかりません」と言われ、私は、「道元が生まれた時代と今の時代というのは、閉塞感が漂い、同じような雰囲気を持っている時代です。そこで自己を確立した人が道元です」と答えました。すると「それを何かに書いてくれ」と言われ、道元禅師の750回忌も間近なこの時期に、真剣に禅を求めている人たちに何かできないか、解りやすい言葉で道元の存在と仏法を知ってもらいたいと思い、『永平の風』を執筆したのです。
さて、道元が修学を始めた比叡山は、当時、僧兵や、修行そっちのけで外界に降りて狼藉を働いていた宗徒が横行し、そこまでしない僧たちでも名利栄達を求める雰囲気が充満していました。そのような中で道元は、日本仏教の原点とも言える「一切衆生悉有仏性」(人間は生まれながらにして完成された人格を持っている)に対して極めて単純に疑問を抱きました。それは、もともと悟っている者がなぜ修行をするのかということでした。しかし、この疑問に答えてくれる人は誰もいません。ただ、栄西がそのきっかけを与えてくれたのです。当時禅の本場は中国で、真に禅を究めるならが、何よりも本場に師を求めなければならないことを教えてくれたのです。
道元は、中国に渡り、色々な経験をしていきます。中でも寧波の港の船上での阿育王山の典座との出会いはショッキングだったと思います。それまで道元は修行というのは、坐禅をして、経典を読んで、祖録を精読して、それを観念的に捉えて構築していくことと思っていましたが、いろいろな経験を積んでいくうちに、自分のやっていることが何となく違うのではないかと気づかされていきます。
そして、正師を求めて各地を遍歴した後、天童山で如浄と出会ったのです。道元は瞬時に如浄に正師を見出し、如浄も道元の器量を見抜き、「仏々祖々の面授の法が成ったな」と言ったのです。この言葉に、如浄の期待の大きさが道元にひしひしと伝わって来る瞬間でした。この巡り会いがなければ今日の道元のいわゆる「永平の風」は吹いていないはずです。
ある日の坐禅の時、居眠りの僧に如浄は、「坐禅は一切の執着を捨てるべきなのに、居眠りするとは何事か」と大喝をして木靴を脱いで殴りつけました。道元は、この如浄の一喝を聞いて豁然と大悟したのです。これが如浄の言う「心身脱落(しんじんだつらく)」です。道元は夜明けを待って如浄に「身心脱落いたしました」と言いました。自分を束縛していたあらゆる我執、煩悩などから抜け出てとらわれのない世界、無礙(むげ)の世界に至った今の心境を報告したのです。これを聞いた如浄は頷きながら「身心脱落、脱落身心」と言います。坐禅の究極においては我々の身心は既に身心を離れて身心は脱落以外にはないと、道元のこの境地を認めたのです。そして、およそ2カ月後、如浄は道元に「仏祖正伝菩薩戒脈(ぶっそしょうでんぼさつかいみゃく)」を正式に授けます。ここに道元の目的がようやく完結したのです。
道元は、「身心脱落」という大悟を経た後も修行と悟りは1つということを展開してまいります。この自覚こそが道元が抱いていた疑問を解く大きな鍵となります。つまり、大乗仏教の説くように確かに人間には生来、豊かな仏性が具わっているが、仏性は修行しなければ現成しない。たとえその仏性が現成しても、実証しなければ体認されていかないわけで道元は修行そのものがそのままさとりの証であるとして、「只管打坐」を標榜します。
では、道元の仏法を一言で表すとどうでしょう。それは、道元が鎌倉から帰って来た翌日の上堂で「私の仏法を表現するならば、明らかに悟り(明得)、言葉で説くことができ(説得)、その全てを信じ(信得)、それを行ずる(行得)ことである」と言ったことです。
では、現代において、我々がそれをどう受け継いでいくか。それは道元がそうであったように、果てしなき求道の旅路を我々も受け継いでいくことかと思います。