愛知学院大学 禅研究所 禅について

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講演会レポート 平成16年度

禅と桃のおいしい関係臨済宗僧侶 芥川賞受賞作家 玄侑宗久

 私の住んでいる福島県三春町は、3つの春が一緒に来ることから命名されたと言われています。つまり、梅と桃と桜が一緒に咲くのです。日本には、桜や梅を褒める言葉や歌はたくさんありますが、桃の褒め方がどうも足りない。けれども、桃と禅は深い関係にあるので、今日はその関係を取り上げようと思います。

 まず始めに、桜の「さ」は農業の女神、「くら」はその女神が降り立つ場所を意味しています。ですから、桜は日本の神様に近い木なのです。

 次に、梅は苦労すればするほど、寒ければ寒いほど芳香を放つと考えられています。また、剪定をするのも梅だけです。剪定とは基準に合うように整えること。これは儒教的な考え方でして、この木は中国北部の儒教圏から日本にもたらされました。

 それに対して、桃は中国南部の道教圈からやって来ました。道教では三千年に1回しかならない桃の実を食べると、不老長寿が得られると信じられています。桃源郷というのも一種の楽園ですね。

 この道教の教えが日本に伝わりますと、日本では国を整備するために道教の概念が多く使われました。ところが、道教は本来個人主義的な教えですから、国の整備には不向きでした。そこで、後から儒教が入ってくると、道教はどんどん排除されて儒教色が強くなり、桃の代わりに梅が表面に現れてきたのです。
とは言え、古い時代に桃が珍重されていたことは確かです。例えば、神社やお寺のお札。これはもともと「桃符」と言ったのですが、桃の木で作られていました。『古事記』の中で黄泉の国から逃げてきたイザナギが、追いかけてくるイザナミに投げつけたのも桃の実。平安時代に大晦日に行われていた鬼やらいという行事で、鬼を追い払うために用いたのも桃の木。鬼の退治に出掛けたのは桃太郎。このように、桃には邪気を払う特別な力があると考えられていました。ただし、邪気に対抗できる力は邪気ではなくて、無邪気です。桃は無邪気、天真爛漫、無垢の象徴なのです。

 この無邪気ということは、仁義等を説く儒教からすればとんでもないことです。しかし、道教では「大道廃れて仁義あり」と説いています。つまり、仁義が生まれる前の無邪気さ、本質的な生命そのものを称えるのです。ですから、道教では柔弱という、乳幼児のあり方が理想とされます。人間は成長すると言葉や論理を使って物事を考えるようになります。これを分別と言いますが、幼子はそれができません。この無分別の状態に戻れというのが道教の教えであり、本来の禅の教えです。

 ただし、禅宗には2つの系統があります。初代の達磨から数えて5人目の弘忍の下に、神秀と慧能という2人の弟子がいました。この中の神秀は、「身は是れ菩提樹、心は明鏡台の如し。時時に動めて払拭し、塵埃を惹(ひ)かしむること莫(なか)れ」と述べています。つまり、心は鏡のようなもので、それを毎日磨けば、塵埃のない素晴らしい心ができあがるというのです。このような儒教的な禅を北宗禅と言います。

 それに対して、慧能は「菩提本(もと)樹無く、明鏡も亦(また)台に非ず。本来無一物、何(いず)れの処にか塵埃を惹かん」と述べました。つまり、鏡みたいな心がどこにあるのだ。人間は本来無一物だから、どこに塵や埃がつくのかと言っている。この慧能の南宗禅だけが日本には伝わりました。ところが、その道教的な南宗禅、桃の無邪気さを愛でるような禅の教えが、だんだん儒教化されてしまったのです。

 とは言え、禅が無分別を尊重することに変わりはありません。ですから、例えば地球が太陽の周りを回っているという分別を禅では排除します。むしろ、太陽が地球の周りを回っているという実感を重視しますから、「私が宇宙の中心だ」と考えればいいのです。

 また、私達は苦労するほど後で良いことがあると考えます。これも分別です。そこで、道教や禅では、やらなければならない仕事があれば、それを楽しみに変えてしまおう。将来に貸しを残さず、今日の楽しみは今日中に味わおうと考えます。これが道元禅師の説く「修証一等」の教えです。つまり、悟るために修行するのではない。修行そのものが悟りなのだというわけです。

 さらに、緑の柳と紅の花のどちらが美しいかというのも分別です。他のものと比較せず、「柳は緑、花は紅」と言うように、それ自身の魅力を認めてしまうこと、各々の家風を認めることも無分別です。

 人間が生きていくためには、分別を身につけるための教育が必要です。つまり、剪定をすることで進歩していこうという梅の発想は大切です。けれども、人間が幸せを感じるのは無邪気になれた時なのです。ですから、分別を離れて家風を認める桃の発想も必要です。梅が正しさを主張するのに対して、桃は楽しさを主張します。その両方の発想が、私達には必要なのです。

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