道元には学問を論じた小論が残されています。それは、「学道」に志す弟子たちへの垂訓ともいえる入門書、心得書という性格をもつ『学道用心集』です。これを中心に、道元の学問に対する姿勢を紹介してみたいと思います。
道元は8歳の時、母の死に遇い世間の無常を感じ、13歳で出家を志し、14歳で比叡山に登り正式の僧になっています。当時の比叡山では、真剣に学道を究める者もいたはずですが、僧としての名聞利達を求めるのに汲汲とする僧や蒼然とした教理に慢心する学僧もいたと思います。このような状況のなかで道元は大いなる疑問に直面することになります。
『建撕記』では、「我々が本来すでに仏性を具えており、本来は清浄である(本来本法性、天然自性心)ならば、どうして三世の諸仏はさらに発心して悟りを求める必要があるのか」という大疑団を伝えています。要するに、仏教では、衆生が本来仏性を具えていると説いているが、それでは仏道修行の必要がないのかという疑問です。人間が生まれながらに仏性を具有するという教学上の命題と、修行を積むという実践上の課題がいかに矛盾なく一致しうるかという宗教の本質に関わる疑問に、道元は逢着したのです。叡山の碩学たちはこの疑問に納得できる解答を与えてくれません。そこで道元は一八歳の秋、叡山を下り、洛中の建仁寺に身を投じて明全の下で臨済の禅風を学ぶことになります。その時、仏教の深奥を窮めるには入宋する外ないと確信する道元に好機が訪れます。彼と同じ思いを抱く明全の入宋の計画が実現し、ともに宋へ旅立ったのです。
寧波に着くと、無名の僧に過ぎない道元は、上陸の許可がおりるまで暫く停泊の船に留まることになります。その時のエピソードが『典座教訓』に出てきます。この船中で責重な体験をいたします。
倭椹(日本産のきのこ)を購いに来た近郊の阿育王山で典座を勤める老僧との出会いです。求道の志に燃える道元は生の仏法を学ぼうと思い、話しかけますが、その老憎は大笑して、「外国の好人、未だ非道を了得せず、未だ文字を知得せざる」と放ちます。このことばに道元は、意味の容易ならざることを察知し、言下に問を発します。「如何にあらんか是れ文字、如何にあらんか是れ非道」と。すると典座は、その問いに答えず、「若し問処を蹉過せずんば、豈に其の人に非ざらんや(もしあなたが質問したところを見過すことがなかったならば、どうしてあなたが文字を知り非道をわきまえる人にならないことがあろうか)」と告げ終ると、時を惜しむように船を下ります。後日この典座との出合いを述懐して道元は、自分の今日あるはこの典座のお陰であると語っています。
叡山で道元は大きな疑団に逢い、学道とは何かという課題に突き当り、これを解決すべく、遥か宋国にやってきたのです。しかし、道元の脳裡には「文字」(学道)と「非道」(修行)との間にひとつの区別を置いていたといえます。つまり、究極の目的である証悟に至るプロセスとして、学問なり修行なりを捉えていたのです。典座の職を全うすることが証悟と無関係だと理解していたのです。ところがその老典座は違い、今の自分の役目を全うすることを措いて仏道がないことを、はっきり自覚していたのです。のちに道元が、「修証一等」、「只管打坐」の禅風を掲げますが、その原点は既にこの老典座との問答にあったわけです。
入宋四年の留学は、決して平坦かつ快適なものではなかったと思われます。前半の二年余は、自分の納得しうる師に逢う機に恵まれず、悶々と遍歴の旅に日を送っています。
しかし、ひとつの転期が訪れます。天童山に如浄という明眼の善知識が、晋山した噂を耳にして再度天童山に登ります。こうして、運命的な如浄と道元との師資相見が実現したのです。叡山で抱いた大疑団以来、多年に亘って摸索してきた学道への確信を漸く手に入れたのです。その後、如浄のもとでの厳しい精進の末、道元は自らの境位の核心である「身心脱落」を見出し、如浄もこれに印可証明を与えます。道元の前半生の軌跡において、如浄との出合いが決定的な機縁となっていることは極めて重要です。それは、「師との邂逅」ということです。
『学道用心集』では、第五条に、「参禅学道は正師を求むべき事」という重要なことがらを掲げています。それは、この世界のどこかに、正師という、いわゆる高徳あるいは博識の師がいても、一方の私が、何らの志を抱くことなければ、師たるべき人に出合うことはないということです。常に向上を志して止むことのない学道の師があり、そして、いま、ここに同様に向上して止まない志をもつ学道の士があるとき、初めて師資相承の運命的な邂逅があるのです。道元はこれを、「而今」とか「時節因縁」ということばで表わしています。自己の全生命を投げ入れる時、時節因縁の成就があるのです。平板な時の流れに処して偶然的な出会いが到来するのではなく、全生命を賭け、今日ただ今を生き切るところに学道という宝蔵の扉が開けてくるのです。
21世紀の情報化社会の一員として生きる宿命を背負って歩まなければならない現代人は、もちろん実利を追う知識と無縁であることは許されません。現代を生きていく相応の才覚も身につけなければなりません。そのためには、道元が身体で究めていった「学道」への真摯な姿勢もまた現代人にとって意義あることであると考えます。
道元が帰国後に行なった最初の説法が残されています。
上堂。山僧叢林を座ること多からず。只是等閑に天童先師に見えて、当下に眼横鼻直なることを認得して、人に瞞かれず、便乃ち空手にして郷に還る。所以に一毫も仏法なし。任運に且く時を延ぶるのみなり。朝朝、日は東より出で、夜夜、月は西に沈む。雲収りて山号露われ、雨過ぎて四山低し。
これは、如浄のもとで学道の真髄を体得して帰国した時の心境を述べたものです。道元は、自らが学んだことは、眼は横について鼻は縦にまっすぐについていることだけである。もはや人にだまされることはなくなった、といっているのです。ここでの「人」とは如浄のことですが、このことが極めて重要なことです。
道元は、全く空手で帰り、一本の毛ほども仏法などというものは持ち合せていないと言っていますが、勿論、文字通り道元が何も得ることなく四年の歳月を如浄のもとで過して帰ってきたのではありません。もはや何人にも、師である如浄にも惑わされることがない揺ぎないものを、如浄からしっかりと得たという師への無上の信頼として受け取ることが必要です。つまり、若き日に疑団として抱き続けてきた教網(教理の束縛)を、ここに漸く断ち切ったことを意味します。
現代に生きる私たちも、いわば道元の抱いたものと同じ(無限課題的課題)を究めていくことが必要ではないでしょうか。