仏陀のイメージが、今日までどのように変わってきたのかを、インド仏教を中心にお話ししたいと思います。
まず始めに、仏教の歴史を考える場合、仏陀が涅槃に入ったことが出発点になります。そして、仏陀の遺骨を人々がどのように考えてきたかということが非常に重要です。
仏典によれば、仏陀の遺骨は8つに分けられて、ストゥーパ、つまり仏塔に祀られました。仏塔の基本形は卵型の土饅頭のような基壇の上に、平頭という円盤のようなものをつけたものです。仏陀が亡くなった紀元前5世紀から紀元前1世紀頃まで、人々は仏陀を人間の姿には表しませんでした。それは、仏陀を人間の姿に表すと、仏陀の力や威厳が損なわれると心配されていたからだと考えられます。そのため、人々は仏陀を礼拝する時には仏塔を礼拝しました。インド、ネパール、チベットでは、仏教のシンボルは仏塔でした。東南アジアでも、最も基本的なものは仏塔です。
やがて、紀元1、2世紀頃になると、仏陀は人間の姿で表されるようになります。しかし、仏塔の重要性はなくなりませんでした。インドやチベット等の仏教史の中では、仏塔と仏像の両方を常に考えておく必要があるのです。
仏像が最初に造られたのはインドの北西にあるガンダーラ地方です。そこでは、仏陀は写実的な姿で表されており、超人的な姿では描かれていません。ちなみに、仏塔は仏陀の涅槃を表していますが、涅槃の状態の仏陀が仏像として表されるようになるのは3世紀頃のことです。また、2、3世紀頃には北インドのマトゥラーでも仏像が造られるようになります。しかし、この時代の仏陀の像は、いずれも出家の姿のものでした。
ところが、時代が下りますと、仏陀は冠をつけ、髪を結い、きらびやかな服装を着て、胸飾りをつけた姿で表されるようになります。さらに中央アジアでは、9、10世紀頃には仏陀が宇宙全体を覆うような姿、いわゆるコスミック仏陀と呼ばれる姿で表されるようになります。
ここで、話を仏塔に戻しましょう。西インドにあるエローラの仏教石窟の中で、8、9世紀頃に造られたと思われ第十窟では、仏塔の前に仏像が彫られています。人々は、卵形の仏塔のイメージに満足せず、仏塔から人間の姿の仏陀が現れることを期待して、それを造形作品として残したのでしょう。このような形のものが、後にチベットやネパールでは一般的になっていきます。
さらに、ネパールのカトマンドゥには、仏塔の平頭の部分に目鼻が描かれている例があります。これは、仏陀が仏塔から現れるのではなくて、仏塔そのものが、瞑想中の仏陀の姿を表していると考えられているのです。
ちなみに、インド人は世界を卵だと考えていましたから、仏塔が卵型だというのは、世界そのものを意味するものでした。その仏塔が仏陀の姿だと考えられたということは、世界が仏陀の身体だという考え方が生まれたことを意味します。世界が神の身体だという考え方はヒンドゥー教では一般的ですが、それが仏教にも入ってきたのです。しかし、仏像だけでは世界が仏陀の姿であることを表すことはできません。仏塔があって、はじめてそれを表現することが可能になったのです。
さらに、ネパールの別の仏塔では、仏塔の四方に仏たちが彫られています。ここでは、仏塔が宇宙の中心の須弥山とみなされて、立体的なマンダラになっています。つまり、仏陀の身体である世界を表す仏塔が、マンダラと合体しているのです。
ちなみに、マンダラは西暦500年頃に登場したのですが、当初の簡単なものは携帯用の祭壇でした。それが、9世紀になると須弥山をその中に取り入れて、マンダラは宇宙図としての意味をもつようになりました。もともとマンダラは神々が住む館でしたが、それ自体が1つの仏の身体と考えられるようになったのです。
この考え方の背景には、4世紀頃までに成立した法身仏(ほっしんぶつ)の思想があります。これは、肉体をもった仏陀が死んでしまっても、仏陀の教え、すなわち「法」は永遠のはずである。それならば、「法」そのものが仏陀に違いないという考え方です。ただし、5、6世紀頃までは、「法」が人の姿をとるとか、「法」そのものが説法するという考えはありませんでした。しかし、7世紀頃に大日如来が現れますと、大日如来は「法」そのものが説法をしている具体的な姿、法身仏だという考えが生まれました。つまり、「法」が人格(ペルソナ)をもったのです。
さらに、大日如来は「法」そのものですから、世界を覆っています。マンダラは、このような大日如来の姿、言い換えれば、世界を覆う巨大な仏を表したものなのです。そして、9、10世紀頃には、仏教の出発点となった仏陀の入滅を表す仏塔が、このようなマンダラとして造られることになったと言うことができるのです。(文)