仏教というのは対話の精神です。互いに話し合う、向き合う、これが大切です。副題にある「対峙」という言葉は、人と人が向き合う、対話するという意味で用いました。人間同士、親子、友人、夫婦の全てに、対話が求められていると思います。仏教はそれを一貫して説いてきていることをお話しようと思います。
「私の仏教学」という重い題名をつけましたが、要するに、私がいかに仏教に迫っているかということです。そこで、現代の日本の社会の中で、仏教、仏教者の5w 1hを問いたいと思います。5w 1hとは、why, who, when, what,where, how の6つの問です。端的に言えば、一体私は何者なのか、いかに勉強すべきか、人生をいかに送るべきか、という問いを発しながら勉強していくことは非常に重要なことです。
現在の仏教には、大きく2つの流れがあると思います。1つは伝統的な、大仏・大法・大僧の流れです。「大」というは大乗仏教のことです。仏・法・僧というのは、仏様・教え・それを修行する人々のことで、三宝と言います。この流れは、仏教が日本に伝来して以来の流れです。2つ目の流れは、明治以来の近代仏教学の流れです。明治から日本は変わりましたが、仏教の世界でも、ヨーロッパから従来の仏教とは全く異質な仏教が入ってきました。
現代の仏教は、伝統的な仏教と、近代仏教学の2つの流れが渦巻いているのです。この流れの中で、私たち日本の仏教徒は一体仏教とは何か、伝統的なものは良いのか、何が正しい釈尊の教えなのかなどと、悩んでいるのです。
日本の伝統的な仏教を、大仏・大法・大僧と言いましたが、大仏というのは、バーミヤンで破壊された大仏が典型的なものです。そういった流れが、中国や朝鮮半島を経て流れてきています。大法、これは中国で成立したと思われます。中国で成立した大蔵経というものがありますが、それはお経だけではなく、禅の語録や、各宗派の文献も全部網羅したものです。これを大法と呼ぶわけです。大僧は、日本で成立したと思います。日本の仏教は、色々な宗派があります。日本では宗派ごとに様々な問題に当ってきていますが、現実には教団同士の相互の交流が成り立っていないという問題もあります。これらの教団が大僧です。
そして、明治の開国時に、我々の前に現れたのが近代仏教学です。それは、それまでの日本文化とは異質なヨーロッパの近代文化と一緒にやってきました。ですから私たちの悩みもまた深いのです。近代仏教学という大量な仏教情報の大きな教えの中に、いかにそれを学び、いかにそれを実践しようか、という事に迷い苦しんでいます。
しかし、苦しんでいるだけではどうしようもありません。そこで助けになるのが釈尊の教え、今日のテーマの「自洲と法洲の実践」です。
釈尊は最後の安居(あんご)の時に、弟子のアーナンダに「アーナンダよ、それ故にこの世で自らを島(洲)とし自らを頼りにして他人を頼りとせず、法を島(洲)とし法を拠り所として他を拠り所とせずにあれ」と仰いました。自分自身を拠り所とし、そして教えをもう1つの拠り所にするのです。自分を大切にすると言うことは、教えを学ぶことであり、また限りなく隣人、友達、先生たちから学んでいくことが非常に重要なのです。仏教はここに尽きます。
次に、自洲・法洲を拠り所とする四念処(しねんじょ)の教えについて述べておきます。それは、身・受・心・法の4つをよくチェックして、我々の体に問題はないだろうか、我々が社会生活で感じていることに執着したり、何か引っかかっていることは無いか、心配事は無いか、悩み事は無いか、などと観察することです。
この四念処を現代的に解釈してみようと思います。まず、身ですが、体は自然物です。自然と繋がっています。受は感覚です。それは人間関係のことです。人間関係というのは心の働きを通わせながら交流しているわけです。これが心にも関係してきます。心は、身口意(しんくい)の三業(さんごう)という我々の行動の主体です。人間の善悪の行いは心から起きてきます。最後の法は、あらゆることが関わってきます。釈尊の時代に、環境・人権・資源などの問題はあったでしょうか。私たちはそういう事を考えざるを得ない時代に生きています。それぐらい広げて四念処を考えたいのです。
そして次に、3つの判断と対話性への努力をする必要があります。一般的には事実判断と価値判断ですが、わたしはこれに対峙判断を加えておきます。対話を活性化させ、相互の認識を絡めあう判断として、第3の判断として取り入れたいのです。
最初に申し上げた通り、人間と人間がお互いに理解し合うことが大切です。お互いに理解することを通して、自分自身の理解を深めて行くことです。そしてそれによって世の中に平和を実現していくわけです。仏教の目指すものはそういう形の平和です。
自分自身を大事にして、そしてもう1つ教えがあるという所を大切にして、今日の四念処の教え等を実践していけば、良い人生を送ることが出来る、と釈尊は教えていると私は思っています。(河)