「十牛図」は禅の入門書で、十の図によって人間の心の有り様、心境がどんどん高まっていく十の段階を、牧人と牛を登場させて物語風に図で描いたものです。
第一の「尋牛」は、ある日牧人が自分の牧場の一匹の牛が逃げ出したことに気が付き、その牛を捜し求めて山川を越えて旅を続ける場面です。第二は牛の足跡を見出す「見跡」、第三は牛を見出す「見牛」です。綱で牛を捕まえる段階が第四の「得牛」、暴れ牛を手なずけていく段階が第五の「牧牛」、おとなしくなった牛に跨って家に帰るのが第六の「騎牛帰家」です。第七の「忘牛存人」は、連れて帰った牛を牛小屋に入れてうたた寝をしている。第八の「人牛倶忘」は、悟りの心境、悟った人間の有り様を表すものです。このような心境に達した後の第九と第十は、空の有り様を浮き彫りにしたものです。第九では、花鳥風月が描かれています。花や太陽が人間を差別しないように存在を差別しなくなった人間の有り様を表したのが第九の「返本還源」です。
十牛図の「尋牛」の牧人は、「自分とは一体何か」という疑問の末、牛探しの旅に出たのです。牛が逃げ出したことは、これまで「自分」と思っていたものが、嘘の自分であることに気付いたことを喩えているのです。即ち、「牛」というのは、「真の自分」です。ところが、第七の「忘牛存人」では、牧人は庵の前でのんびりとうたた寝をしています。牧人には、自分とか、有るとか、無いとかいう言葉や思いは全くなくなってしまったからです。問題は「言葉」です。一番の迷いの根源は言葉なのです。仏教では、現象は全部、この一人一宇宙の中で言葉によって戯れに語られて作られたものと主張するのです。
私たちは、自分があると思っています。それは、「表」の世界のことです。存在には表と裏があります。「表」の世界では、自分や時間や空間があります。しかし、もう一つ「裏」の世界があります。これが十牛図の第八の空一円相の世界です。この空の世界は、言葉や思いが通用しない世界です。
皆さんが、今、私の声を聞いているのも、耳や脳などの器官の働きで皆さん一人一人の心の中で、あるはずもない私の声を作り出しているだけなのです。ただ心があるだけです。それを「唯識」と言います。唯識思想の根本主張は、「唯識所変」「一切不離識」と言って、ただ識によって作り出され変化したものである、すべては識を離れて存在しない、ということです。そして、その作り出す根源的なものが「阿頼耶識」です。阿頼耶識は、別名「一切種子識」と言い、全ての存在を生み出す種子、即ち可能力を有した識です。一人一宇宙の中の全ては深層の阿頼耶識から生じてくるのです。一人一宇宙の中で深層から清らかにしていくことが大切です。
自分を変えていこうと思ったら、教理のエッセンスだけを理解することが重要です。その一つとして「無分別智」と「正聞熏習」があります。私たちの日頃の心は、乱れています。その乱れた心を、例えば、吐く息、吸う息になりきっていくと、次第に定まった静かな心になっていきます。このなりきった心を「無分別智」と呼ぶことができます。この無分別智の火で阿頼耶識にある穢れた種子を焼き尽くしていくのです。無分別智で他人に対してみると、人を憎むこともなくなっていきます。無分別智を養成していくと、間違いなく心は深層から浄化されていきます。第五の「牧牛」は、心を深層から浄化していくことなのです。
もう一つが「正聞熏習」です。無分別智は実践に関することですが、正聞熏習は理論に関することです。正聞熏習とは「正しい師から正しい言葉を繰り返し聞いて、その言葉を深層心に熏じつけていく」ことです。正しい教えを、正しい言葉を繰り返し聞くことによって、深層の阿頼耶識の中の清らかな種子が成長していくのです。やはり、出発点は他からの「縁」です。しかし、「因」は自分の中にあります。全ての可能力としての因は阿頼耶識の中にありますが、大切なのは縁です。この正聞熏習という他者からの縁を大切して下さい。
ところで、十牛図には、目指すべき人生の三つの目的があります。第一は「自己究明」です。真の自分を発見しようとすることです。自分の問題で本当に苦しんだなら、十牛図を手掛かりに自己究明を、己事究明を目指してください。第二の目的は「生死の解決」です。生と死、これは人間にとって一番苦しい問題です。第七の「忘牛存人」の牧人は、自分への執着をなくしきって眠っているのです。彼は「生死の解決」を果たしたのです。しかし、彼にはまだ一抹の煩悩が残っているのです。俺はいいとこまで来たんだ、すごい人間だと思った瞬間に、「自分」が出てきたのです。それを払拭するために、最後の詰めの激しい修行が必要になるのです。「忘牛存人」の牧人は、実はのんびりとうたた寝しているのではなく、大死一番という気持ちで次の第八の世界を目指しているのです。
そして、この牧牛は、最初から「他者救済」を目指していたのです。皆さんもこの牧人の最後の目的である他者救済を目指して生きようではありませんか。自分なんか元々ないのだから、自分なんかどうでもいい、と思って頑張ろうではありませんか。そこに本当の幸せがあるのです。エゴに満ちたこの己を全面的に燃やし尽くしていく、人のために燃やし尽くしていく、智慧と慈悲を発揮しながら他者のために生きていく、そこに心の底から幸せを感じるのではないでしょうか。(河)