愛知学院大学 禅研究所 禅について

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講演会レポート 平成23年度

無常の世界 ―不離叢林―駒澤大学教授 片山一良

 「不離叢林(ふりそうりん)」という言葉は、永平寺78世・宮崎奕保(えきほ)禅師のご遺偈(ゆいげ)、「慕古真心 不離叢林 末後端的 坐断而今」にも示されています。「叢林」、すなわち、輪廻、あるいは修行道場を離れないということです。しかし、それでは仏教の「無常」の教えに対立しないのでしょうか。

 まず、仏教の要点を確認しましょう。釈尊の最期の言葉である「いかなるものも移ろい行く。怠ることなく努めよ」には、前半に仏の教え、後半に仏の実践が示されています。

 この、仏の教えを代表するのが「諸行は実に無常なり(諸行無常)、生じ滅する性質のもの(是生滅法)、生じてはまた滅しゆく(生滅滅已)、その寂滅は安楽なり(寂滅為楽)」という「無常偈」です。「諸行」とは自己、または世界。それは「無常」、つまり、生じては滅するものである。欲や執着がなければ、あらゆる苦はない。常に自由で、涅槃という完全な静まりを見るということを表しています。

 一方、仏の実践を代表するのは「いかなる悪も行わず(諸悪莫作)、もっぱら善を完成し(衆善奉行)、自己の心を浄くする(自浄其意)、これが諸仏の教えなり(是諸仏教)」という「七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)」です。唐代の白居易が「仏教の大意は何か」と尋ねた時、道林禅師が「諸悪莫作、衆善奉行」と答えました。「それならば三歳の小児でも言える」と言うと、禅師は「たとえ三歳の小児が言い得ても、80の老翁でも行い得ない」と答えます。白居易は拝謝して去ったという逸話が伝わっています。

 この「七仏通誡偈」の中で、前の三句は順に戒・定(じょう)・慧(え)を説いています。戒は不殺生、不偸盗(ちゅうとう)、不邪婬(じゃいん)、不妄語という他者を尊重する慈悲と、不飲酒という自ら放逸と妄念に耽ることのない智慧による生活を表します。そのような戒にもとづいて第二句の定(心の静まり)が実践され、それによって第三句の智慧を通して自己は浄まるというのです。

 また、仏は、話をする時には法(教え)の話をし、沈黙する時には坐禅弁道に努めて、いかなる時処も無駄にしてはならないと説きました。しかも、それを自己の身心において、生涯続けるべきだと教えました。私達にとって、世界はこの身心の世界でしかありません。目や耳などの六根によってしか、世界を知ることはできないからです。しかし、身心を調御できれば、世界は静まります。自己は苦であり、それは渇愛によって生じます。けれども、苦も渇愛も滅すれば、涅槃を知り、世界の一切を知ることになるのです。

 以上が仏教の要点です。では次に、道元禅師の説く不離叢林の行持を考えてみましょう。禅師はそれを坐禅であり、沈黙であり、お経であり、転法輪であると説かれます。

 まず、『永平清規(しんぎ)』「辧道(べんどう)法」に、仏祖は道を行じ、非道を行じることがない。そこには弁道の法があり、仏はその大道、坐禅をすると記されています。そして、もしもある者が他の者達から離れて行動したら、慢心を生むのみだと述べられます。つまり、常に一如に坐すことが不離叢林。ここでは、不離叢林が脱落身心、坐禅だと言われています。

 一方、『正法眼蔵』「行持(ぎょうじ)」には、不離叢林とは脱落した一切の言葉、一切の沈黙だと示されています。また、不離叢林の行持は静かに行うべきだとも説かれています。不離叢林という無風を知れというのです。無風の言葉がある。たとえその言葉がわからなくても、行持に励むべきである。沈黙を空しいものと思ってはならないということです。

 次に、『正法眼蔵』「道得(どうとく)」では、不離叢林は兀坐(ごつざ)、不動の坐禅であり、不離道得であると述べられます。それは無言、沈黙であるが、言い得る言葉の全体であり、真実の言葉の表現だというのです。

 さらに、『正法眼蔵』「転法輪」では、転法輪という説法が一生不離叢林であり、功夫し、参学し続ける仏道であると語られています。つまり、それは坐禅であり、仏道に励むことだというのです。

 さて、今度は、無常と不離叢林について考えてみます。

 『学道用心集』に、無常を観るとは、世間、すなわち自己を知ることであり、無常を観る時、一切の我執は起こらず、輪廻の恐怖を知ると記されています。

 しかし、仏の教えは甚深微妙、実に見難いものです。なぜなら、普通の人は諸法の世界を見ますが、仏は諸法の実相を見るからです。『法華経』に「唯仏与仏」という言葉があります。仏の言葉は仏のみ、つまり、無欲の者しか知り得ない。欲のある者にはわからないということです。

 そこで、仏は必ず欲のある者が用いる世俗諦(たい)(諸法による世俗の言葉)と、無欲の者のみが知り得る第一義諦(実相による言葉)という2つの言葉で教えを説きます。世俗諦は差別され、名前がついたもの、勝義諦は無差別のもの、すなわち不離叢林なのです。

 『法句経』に、「無上の法を見ることなく百年を生きながらえるより、無上の法を見通して一日生きる方がまさる」と説かれています。無上の法、すなわち無欲の法を、今ここに知るべしということです。

 道元禅師もこの言葉を大事にされました。『正法眼蔵』「行持」に、「百千万劫の回生回死(かいしょうかいし)のなかに、行持ある一日は、髻中(けいちゅう)の明珠なり、同生同死の古鏡なり、よろこぶべき一日なり、行持力みづからよろこばるるなり」と述べられています。行持のある一日こそが古仏の法なのです。

 さて、冒頭に紹介した仏の辞世句を振り返りましょう。無常とは喜怒哀楽をくり返す自己の世界です。私たちはこの無常を知り、その実相を覚ることで、真実のままに生きることを教えられます。その生き方は、ただ精進あるのみ。これが仏の生き方であり、不離叢林ということです。(文)

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