愛知学院大学 禅研究所 禅について

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講演会レポート 令和7年度

日本仏教の特徴と魅力 戒律(規則)に注目して山形大学名誉教授 山形大学都市・地域学研究所名誉所長 松尾剛次

本講演では、日本仏教の特徴と魅力を考えるにあたり、とりわけ戒律(僧団規則)の扱いに注目して、その歴史的展開と社会的意味を検討したいと思います。日本仏教には、戒律の軽視、葬式仏教的性格、鎌倉新仏教の強い影響、そして神仏習合という四つの顕著な特徴がありますが、本日は第一の「戒律軽視」の問題を中心に論じます。

そもそも戒律とは、釈迦が僧団統制のために定めた規則であり、僧侶集団の秩序維持の基盤となるものです。なかでも四波羅夷罪(不淫・不殺・不盗・不妄語の破戒)は最重罪とされ、これを犯した場合は僧団から追放されます。仏教は本来、出家生活を前提とする宗教であり、戒律遵守は出家者の根本条件でした。しかし日本仏教では、僧侶の妻帯や飲酒などが広く見られ、結果として在家社会と密接に結びつく「在家仏教」の性格が形成されました。

戒律の具体的内容は依拠する戒本によって異なります。日本では、出家者の規範を示す『四分律』(約250戒)と、在家・出家双方を対象とする菩薩戒を説く『梵網経』下巻(十重四十八軽戒)が広く受容されました。前者が出家者限定であるのに対し、後者は在家者も含む点に大きな相違があります。また肉食や酒の扱いなど具体的規定にも違いが見られますが、いずれも女犯を禁じる点では共通しています。このように、日本仏教の戒律理解は単一ではなく、複数の規範体系の重層的受容の上に成立してきました。

日本における戒律制度の確立には、唐僧・鑑真(689〜763年)の来日が決定的役割を果たしました。鑑真は754年に中央戒壇を設け、奈良の東大寺において四分律に基づく正式授戒を行いました。さらに761年には地方戒壇として筑前太宰府の観世音寺、下野の薬師寺に戒壇が設置され、国家的授戒制度が整備されます。授戒は三師七証あるいは三師二証方式で行われ、沙弥が受戒して比丘となることで国家公認の官僧資格を得ました。受戒年次は戒臈として序列原理にもなり、この制度は東アジア世界でも通用する官僧養成機構として機能しました。

しかし、この国家的授戒制度に対して批判的立場をとったのが最澄(767〜822年)です。最澄は四分律中心の旧来の戒律体系を否定し、延暦寺に独自の戒壇を設け、菩薩戒中心の授戒を主張しました。弘仁13年(822年)に延暦寺戒壇が成立し、以後は十重四十八軽戒のみで十分とする授戒が行われます。道元(1200〜53年) が1213年に受戒した例も、この延暦寺戒壇の重要性を示しています。もっとも、この方式は中国では正式僧侶として認められない場合もあり、戒壇制度の多元化が日本仏教の制度的特徴となりました。

中世に入ると、僧のあり方は官僧と遁世僧に大別されます。官僧は国家授戒制度のもとで任命され、鎮護国家祈祷など共同体宗教的役割を担いました。一方、遁世僧は官僧制度から離脱した私僧であり、穢れ忌避などの制約を受けず、救済活動や葬送など社会実践に従事しました。法然(1133〜1212年)・親鸞(117〜1262年)・道元・栄西(1141〜1215年)・日蓮(1222〜82年)・一遍(1239〜89年)・貞慶(1155〜1213年)・明恵(1173〜1232年)・叡尊(1201〜90年)・忍性(1217〜1303年)らはこの遁世僧に位置づけられ、新しい仏教運動の担い手となりました。彼らは国家祈祷中心の宗教から、個人救済中心の宗教への転換を推進した存在といえます。

一方で、中世社会では破戒の一般化も見られました。女犯は定着し、実子が弟子となる「真弟子」という語も成立します。また稚児の存在に象徴される男色文化も広く見られ、師僧と稚児の関係が教育的関係として理解されることもありました。東大寺僧宗性(1202〜78年)の起請文に見られるように、男色関係の上限を定めながらもその存在自体は否定していない例は、当時の官僧社会の実態を示唆しています。こうした状況は、戒律理念と実態の乖離がかなり広範囲に及んでいたことを示します。

このような破戒の広がりを前提に、中世には2つの方向性が現れます。1つは持戒復興の動きであり、その代表が叡尊と忍性です。叡尊は自誓受戒を行い戒律重視の教団を形成し、民衆にも不邪淫・不飲酒・不殺生などの戒を勧め、大規模な信者集団を形成しました。忍性はその高弟として関東に進出し、極楽寺を拠点に布教するとともに、ハンセン病患者救済や橋・道路整備など社会事業を展開しました。彼らの活動は、戒律遵守が単なる禁欲ではなく、社会救済実践と結びつく可能性を示しています。

他方、もう一つの方向が無戒への傾向です。その象徴が親鸞であり、親鸞は『教行信証』において末法における戒律僧の不信を強く批判し、無戒名字の比丘しか存在しない現実を直視しました。親鸞自身が妻帯したことは、日本仏教における戒律観の転換を象徴する出来事であり、明治5年(1872年)の肉食・蓄髪・妻帯許可、さらに明治30年代以降の妻帯一般化へとつながる歴史的流れの先駆と位置づけられます。

以上の検討から、日本仏教における戒律軽視は単なる規範崩壊ではなく、国家制度、社会構造、民衆救済、宗教実践の変化の中で形成された歴史的現象であることが分かります。戒律遵守を基準とする出家宗教モデルから、在家社会と共存する宗教モデルへの転換こそが、日本仏教の特徴であり魅力の一端を成していると言えるでしょう。

(石)

愛知学院大学 フッター

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