愛知学院大学 禅研究所 禅について

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研究会レポート 平成14年度

道元の修証論について東洋大学教授 竹村牧男

 道元は、しばしば修行と本証(悟り)を1つにした修証という言葉を用いています。この言葉の先例は、おそらく南岳懐譲の「修証は無きにあらず、染汚することは得じ」に求められます。しかし、南岳は修と証を別の2つのものとして意識しているのに対して、道元は修と証は分けられない1つのものだと了解しています。いわゆる修証一等の立場です。このような道元の修証論は、全体としてどのような構造をなしているのでしょうか。

 道元の修証論の根本は只管打坐にあります。つまり、ただひとえに打坐することのみが、釈尊以来正しく伝承されてきた無上の仏法だという立場です。この立場を、道元は師の天童如浄から受け継ぎました。道元は『宝慶記』の中で、「堂頭和尚(如浄)、示して曰く。参禅は身心脱落なり。焼香・礼拝・念仏・修懺・看経を用いず。祗管に打坐するのみなり」と記しています。この如浄の言葉が、道元の仏道の原点です。そして、彼はこの原点を最晩年に至るまで、繰り返し説示し続けました。

 ただし、『宝慶記』によれば如浄は「祗管に打坐して功夫を作し、身心脱落し来るは、乃ち五蓋・五欲を離るるの術なり」と説いています。如浄は身心脱落とは無明や煩悩を除くことであり、坐禅はその方法だと考えていたと思われるのです。

 これに対して、道元は自らの立場を「仏法には、修証これ一等なり」「すでに修の証なれば、証にきはなく、証の修なれば、修にはじめなし」と述べています。ここには、修行と本証(悟り)は1つであり、それは無始無終であることと、修は証上の修であることが示されています。道元は、修行を離れて悟りが存在するという考え方を繰り返し否定します。そうではなくて、修を離れた証はなく、証を離れた修もない。だから、坐禅を離れた悟りもあり得ないというのです。道元は、坐禅を単に悟りの手段としては見ず、修行と悟りを別のものとは見ない視点を明確にしました。この考え方は、如浄の立場とはやや異なっており、道元の禅の特徴となっています。

 とは言え、道元も悟りの体験が存在することを、否定してはいません。むしろ、道元自身も如浄のもとで、身心脱落の悟りの瞬間を体験したと思われます。このことは、彼自身が「一向打坐して、大事を明め得たり」と語っていることや、雲水に対して「坐禅も、自然に、久くせば、忽然として大事を発明して、坐禅の正門なる事を、知る時有べし」と説いていることから窺われます。道元が悟りのための坐禅を否定したのは、悟りを体験した後に、さらなる修証がなされないことへの批判であったと思われます。

 では、悟りの体験とはどのようなものでしょうか。これに関連して、道元が好んで指摘しているのが香厳撃竹・霊雲桃花の話です。香厳は掃除をしている時に、飛び散った小石が竹に当たってカーンという音を発したのを聞いて「豁然として大悟」し、霊雲は咲き誇る桃の花を見た瞬間に「忽然として悟道」したといいます。もちろん、小石が竹に当たって発するカーンという音を聞いたからと言って、あるいは、満開の桃の花を見たからと言って、誰もが悟りを体験できるわけではありません。香厳も霊雲も、長年の参禅修行を経た後に、期せずして悟りの体験を得たのです。この2人の話は、道元の考える悟りの体験を、有力に物語るもの、だったのでしよう。

 さて、こうして体験される悟りの世界を、道元は「各各の脱穀うるに、従来の知見解会に拘牽せられず、曠劫未明の事、たちまちに現前す」と表現しています。つまり、殻を脱すると、まったく知られていなかったことが現前するという意味です。色も音も、主体と客体とが分裂して対象的に捉えられるあり方ではなく、主観と客観の枠組みが脱落し、主客一如の真理として実現、現成するというのです。それは、対象的に捉えられた世界ではなく、自己本来の面目の現成です。このことを「脱落即現成」と言っておきましよう。

 ただし、現成した渓声山水の世界は、決して静止した世界ではありません。谷川は消らかな響きをあげて流れ、山には雲も流れています。このような、実に行為的世界として世界は現れるのです。しかも、その世界の姿そのものが、真理を語る説法の姿を表しています。この脱落即現成の道理こそが、道元の禅世界を貫通しているのです。

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