日本禅宗史では、栄西が論及される割には、後に影響を与えたにも関わらず、弟子の退耕行勇や明全はあまり触れられることがありません。
栄西門下で、その後継者は行勇と言つていいでしょう。栄西の鎌倉における活動は、行勇との関わりを抜きに考えられませんし、密禅併修という栄西の禅風が、どのように展開したのかについても、行勇自身やその門流の活動を通して眺めることが不可欠です。従来の曹洞宗史では、道元と行勇の関係が問題にされていませんが、道元の建仁寺止住期間や、栄西示寂後の僧団を継承した点からも、道元が行勇と全く接触がなかったとは考えられません。
行勇とは栄西会下の同門である明全は、その弟子道元との関わりにおいて言及されることが多く、道元の『辧道話』や瑩山の『伝光録』では、栄西門下において並ぶ者の無い程の人物で、栄西の仏法を正しく嗣いだと述べていますが、現実には栄西門下においては行勇・栄朝を双壁とすべきであります。
諸書が伝えるところでは、明全は戒律に精通して持戒堅固であり、また、顕教・密教・戒・禅を併修する人でした。この四宗の併修は、最澄が唱えた四宗相承(円・戒・禅・密)の仏法であり、最澄への復古を意図した栄西の宗風と言えます。つまり明全自身は、栄西の宗風を忠実に受け継いでいたと言うべきでしょう。
三井寺公胤が道元に与えた指示は、端的にいえば禅を学ぶこと、そのために入宋すること、さらにそのために建仁寺へ行くことでした。栄西門流(建仁寺僧団)には、かなりの数の入宋経験者がいた可能性が高く、当時の建仁寺は、渡海人宋に関する情報を入手しやすい環境にあったと考えられます。道元が、入宋のきっかけを求めて建仁寺へ赴いたとすれば、とりあえず指導的立場にある人物に接触しようとするのが自然であり、それはやはり、明全ではなく行勇だったと思われます。道元と明全が接近することになったのは、明全自身が現実に入宋を計画していたからとも想像できます。明全の侍者として随行すれば、入宋の手続も比較的容易だったはずです。
行勇の門下では、隆禅も重要です。隆禅については、道元に関係する問題があります。それは、道元が入宋中に隆禅と称する日本人僧に遭遇しているということです。『正法眼蔵』「嗣書」に、隆禅の斡旋で仏眼清遠派の嗣書を閲覧したことを述べています。隆禅に関する記事は、曹洞宗関係の史料に散見でき、このことから、道元より早く入宋し、道元とともに如浄に参じた隆禅という僧がおり、しかもその隆禅は栄西門下で、両者にはかなり緊密な交流があったらしい、ということです。問題は、この隆禅と行勇の弟子の隆禅が、同一人物かという点ですが、これについては賛否両諭あるものの、栄西下、行勇の門流のほとんどが入宋経験があることから、隆禅の入宋は否定できません。
無本覚心(1207〜1297)もまた、行勇に参随した人物です。彼は行勇に参じた後、入宋して無門慧開(1183〜1260)に学び、その法嗣となり、覚心の系統は臨済宗法燈派として栄えました。その禅風は、行勇から受けた密教色の強い兼修禅でした。
覚心は、仁治3年(1242)に道元を訪れています。
その頃、覚心は既に入宋求法を決意していたため、入宋経験のある道元を訪ねたのでしょう。しかも、それは示寂直前の行勇が、かつて自らの会下に参じた縁によって、覚心に指示したとも考えられます。
鎌倉時代は、多くの日本人僧が入宋・入元し、また中国人禅僧が渡来して、宋朝禅を伝えました。中でも、栄西の2度の入宋は特筆すべきことです。密禅併修とも表現される栄西の禅は、ある意味で道元を迂回するようにして、後世の禅宗各派に影響を与えましたが、道元もまた栄西門流であることに違いありません。栄西門流の入宋渡海という大きな流れは、道元にとっても少なからず影響を与えたと見なければなりません。三井寺の公胤が入宋して禅を学ぶよう示唆したことも、栄西自身や建仁寺僧団の動きに触発されたと考えることもできます。
このように考えるとき、建仁寺を中心として展開していた栄西門流の、複数の僧たちの入宋渡海は、一連の動きとして、さまざまな影響を周囲や後世に及ぼしたといえるのではないでしょうか。