愛知学院大学 禅研究所 禅について

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研究会レポート 平成18年度

「正法眼蔵行持」と時間について駒澤大学教授 石井 修道

 『正法眼蔵行持(しょうぼうげんぞうぎょうじ)』について、3年半に渡り『傘松(さんしょう)』誌に連載させていただきました。『行持』巻に次の文章があります。「徒(いたず)らに百歳生けらんは恨むべき日月(じつげつ)なり、悲むべき形骸なり。設(たと)い百歳の日月は声色(しょうしき)の奴婢(ぬび)と馳走すとも、其中一日の行持を行取(ぎょうしゅ)せば、一生の百歳を行取するのみに非ず、百歳の佗生(たしょう)をも度取すべきなり。此一日の身命(しんめい)は尊ぶべき身命なり、貴ぶべき形骸なり」と。私は、この連載中に母と妻を亡くし、妻の亡くなる直前にこの文章に触れ、これが、『行持』巻の時間論を取り上げる動機となりました。

 『行持』巻の冒頭に、「行持道環(どうかん)」の語があり、これは、始めも無ければ終わりも無い、どこを取っても行持が連続していく様だと一般的には理解されています。しかし、その理解は正しいのでしょうか。

 道元禅師の時間論が集約されているものとして『現成公案(げんじょうこうあん)』巻があります。この巻では、薪と灰の関係、春と夏、冬から春、人間で言えば生と死という問題を「生も一時の位(くらい)なり、死も一時の位なり」と言い、この時間論と『全機』巻の「生也全機現(しょうやぜんきげん)、死也全機現(しやぜんきげん)」の語とは非常に密接な関係があります。また、『身心学道(しんじんがくどう)』巻では、圜悟(えんご)禅師の「生死去来、真実人体」という言葉が出てきます。そこで道元禅師は、「いはゆる生死は凡夫の流転なりといへども、大聖の所脱なり。超凡越聖せん、これを真実体とするのみにあらず。これに二種七種のしなあれど、究尽するに、面々みな生死なるゆゑに恐怖すべきにあらず。ゆゑいかんとなれば、いまだ生をすてざれども、いますでに死をみる。いまだ死をすてざれども、いますでに生をみる。生は死を 罜礙(けいげ)するにあらず、死は生を罜礙するにあらず、生死ともに凡夫のしるところにあらず。・・・生は1枚にあらず、死は両疋にあらず。死の生に相対するなし、生の死に相待するなし」と書かれています。

 『行持』巻には、「行持」と「道環」の語がひっついた形で3回出てきます。その他には『行持』巻よりも早い撰述の『行仏威儀(ぎょうぶついいぎ)』巻だけです。そこでは「道環」の語が「道環として」とあり、動詞とし

て使われていません。「道環」の語が、最初に使われた時にはそうだったと思われます。

 『行持』巻の冒頭の続きに、また「道環」の語があります。私は、その部分をこう読んでみました。「仏祖の大道、かならず無上の行持あり、道環して断絶せず ・ ・ ・ ・。発心・修行・菩薩・涅槃、しばらくの間隙(かんげき)あらず、行持道環なり。」と。一般には「 ・ ・ ・行持あり。道環して断絶せず ・ ・ ・ ・、 ・ ・ ・」と読まれています。「行持道環」という言葉が従来の解釈では、断絶せず、間隙あらずというような形で「繰り返し、繰り返し」という意味で理解してきたと思います。しかし、私は「道環して断絶せず」で一応切って、「仏や、正法の伝持者である祖師の絶対の道は、必然に迷える衆生の想像を絶する“覚者の行いの持続(行持)”が存し、“マコトのはたらき(道環)”として断絶することはない。発心・修行・成道(菩提)・入滅(涅槃)は、一なるものとして、その間に少しのすきまもない。これが“覚者の行いの持続”の“マコトのはたらき”なのである」と訳し、これに続く部分にも「行持」の語があり、「道環の仏行の持続」と訳しました。

 普通、禅では、最終目的が悟道であり得法でありますが、『即心是仏』(そくしんぜぶつ)巻で言うような、それも望むことなく修行する、証(さとり)を期待しない不染汚(ふせんな)というものが道元禅師の主張の大きな特色であるとすれば、これが、『弁道話』(べんどうわ)の本証妙修(ほんしょうみょうしゅ)説へと展開していきます。このように考えると、生死という問題を中心に時間論を考えてみると、『行持』巻の道環論は『生死』(しょうじ)巻まで関連してくると思います。

 『現成公案』巻の薪と灰の関係などの説明を道元禅師の時間論とすれば、それは、松本史朗氏が『禅思想の批判的研究』(612頁)で示した「縁起説が示す危機的な宗教的時間」と理解できると思います。つまり、そういう時間論を持つ『現成公案』巻を代表として、それと『全機』巻と『行持』巻は、祖師たちが具体的に実践してきた世界、それは常にこういう危機的な宗教的時間と直面しながら維持されてきた世界と考えています。

 3年半に渡り『行持』巻を連載しましたが、母や妻を失った出来事を通して私自身が向き合った『行持』から、私の「道環」の考え方自体は1つの問題提起になったと思います。『行持』に向き合いながら私個人の生き方も見つめさせられたこと、そのことと時間論は非常に大きな関わりを持っていると思います。 (河)

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