瞑想の基本は心を何か一つの対象に結びつけ、そのことに気づくことです。その最初の段階は「止」と呼ばれ、心の働きをしずめるための観察です。この心の働きを静める観察は、大きく三昧と禅那に分けられます。次の段階の「観」は、身体が感じ取っていること全てを、気づき続けることの観察です。
止と観の相違ですが、止は、観察の対象が一つに限定され、他のものに心の働きが移ってしまった時に、それに気づいて最初のものに戻ってくるところに特徴があります。目指されているものは心の働きが減少し静かになることです。ここでも心の働きに「気付く」ことがポイントになります。
一方、観は観察の対象が一つに限定されず複数のものになり、常に身体が感じ取っているものを気づき続けるところに特徴があります。
目指されているものは、受→想→行→識の一連の心の反応を途中で気付くようになることです。外界の刺激を受け入れて、そして心が一気呵成に反応して、さまざまな働きを生じさせるあり方から脱却させることと言い換えることも出来ます。ここでも大切なことは「気付く」ことです。心の働きを対象化して気づくことは、止も観も変わりません。観は、心の働きである様々な感情から私たちを解放する具体的な手だてであり、原始仏教の求めた悟りに他ならないと思います。
さて、このような瞑想の基本は、現在の国々ではどのように伝わっているのでしょうか。たとえば、ミャンマーでは一度衰退した修行道が、アジア地域の植民地化に対する抵抗運動の一環として復興されました。その立役者がレディー・サヤドゥ(1846―1923)です。彼はマンダレーにおいて活躍しました。また、マハシー・サヤドゥも重要な役割を果たしました。現在では、四つほど大きな瞑想の流派が存在しています。
①マハシー
マハシー・サヤドゥ(1904―1982)によって開創された一派で、現在、世界中に拠点を持っています。タイの仏教の修行法も、基本的にはマハシーの影響を受けたものと考えられます。本部はヤンゴンにあります。修行の中心は念住の観察(心に生起する思いや肉体に感じられる現象)や四念処(座っていて呼吸の観察、おなかの膨らみ凹みで観察する、から、心に生じる働きに気づき続ける、体で感じる感覚を気づき続けるなど)にあります。但し、止としての瞑想(入息出息など)はあまり行っていないところに特徴が見て取れます。
②モコック
モコック・サヤドゥ(1899―1962)によって開創された派です。特徴は自我への執着に対処することを大切にしているところです。正しい認識を知ることから始め、どちらかというと教理的な部分も明確に主張した派です。
③国際瞑想センター
ウーバーキン(1899―1971)によって開創された派です。この派は、止と観との両方をともに重視しています。十日間のコースを毎月、開催しており、なんと在家者が今も瞑想を教えています。五戒を遵守し、最初の五日間は入息出息を止として実習し、後の五日間は観を実習しています。この流れの上に、現在インドを拠点に置き、大きく展開しているゴーエンカの協会があります。
④スンルン
スンルン・サヤドゥ(1889―1952)の創設した派ですが、ここでは、激しく音を立てながら出息と入息とを繰り返し、鼻の先で衝突する空気を観察した後、合図に従って激しい呼吸を止め、体全体で発生する感覚(痛み)を観察します。一風変わったやり方をしています。
ミャンマー(バングラデシュも含めて)の瞑想は、原始仏教からの瞑想を忠実に継承していますが、入息出息観の対象の一つとして、おなかの膨らみ、凹みで観察する新しいパターンが生み出されていることが注目できるでしょう。また、止を実習せずに、いきなり観を実習させる流派が存在することにも注意してよいでしょう。
次にタイについて話します。タイにおいては多くの僧侶は、マハシーの流れを汲んでいるようです。すなわち止はあまり重視せずに、観を中心に行っています。また、新たな宗教団体として、タンマガーイと呼ばれる派も登場しています。この派は、タイに昔から存在していた遊行僧の流れの上に存在し、止を重視する一派と言えましょう。
さて、中国においてはどうでしょうか。中国では、もともと存在した気の流れを観察することと融合して仏教の瞑想が理解されました。心を結びつける対象が、気の流れになったのです。これは、一つの対象に心の働きが結びついているので、止であることは間違いありません。一概に断定することは差し控えたいのですが、観の方にはあまり大きな関心は払われなかったようです。東アジア世界の瞑想は、止の方に関心がつよく働いていたと言えるようです。