愛知学院大学 禅研究所 禅について

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研究会レポート 平成22年度

明峯素哲禅師とその弟子たち駒澤大学教授 佐藤 秀孝

 明峯素哲禅師(1277〜1350)について調べ始めた頃、明峯に関する論文があまりにも少ないことに驚きました。伝記史料に関しても『洞谷五祖行実』の中のものがあるだけで、その他には『延宝伝灯録』や『本朝高僧伝』などに収められているものはあるのですが、個別の史料がありませんでした。ところが図書館でたまたま『越中古文書』をみていると、その中に『光禅開山老和尚行業記』という明峯の伝記を見つけました。江戸時代に書かれたものですが、よく読んでみると、氷見の光禅寺で書写したらしいことが書いてある。そこで光禅寺に問い合わせたのですが、その時は所在がわかりませんでしたが、のちに光禅寺を訪れた時、寺に所蔵されていることが分り、幸いにも拝借することができました。それに基づいて論文を四本ほど書きましたが、それをまとめたのがこの度上梓した『明峯素哲禅師の生涯』です。

 お坊さんの伝記史料で面白いのは、いいことばかりが書かれているわけではないところです。そういうことを研究していくと、いろんなことが見えてくるのです。瑩山から明峯にかけての永光寺や大乗寺を見ても、もめごとが起っています。そういうことをバネに曹洞宗が発展していったように思います。

 例えば、瑩山が大乗寺の住持を退く時、明峯に後を任せようとしたのですが、まだ若いということで臨済宗の恭翁運良に任せてしまう。大乗寺は道元・懐奘・義介の永平三代を祀る寺なのに、それを臨済宗のお坊さんに任せてしまったのです。瑩山の意に反して、運良が長く居座ってしまったので、瑩山は運良を「不如意の僧」などと言っています。瑩山の示寂後に運良のもとに曹洞宗の修行僧たちが参じているのですが、その中に運良のやり方に一々意義を申し立てる「六群の党」と言われる者たちがいて、それに嫌気がさして運良は大乗寺を出て行ってしまいます。その後、大乗寺は荒れ果ててしまい、10年ほど経ってから明峯が入って復興をしたのです。

 大乗寺に晋住しなくてはならなくなった時、明峯は、それまで住持を務めていた永光寺を輪番住持制(輪住制)にしています。それは、永平寺や大乗寺の失敗を踏まえて、もめごとが起こらぬように、そういう制度を敷いて寺を維持しようとしたようです。

 次に、瑩山の指導法についてみてみます。ある時、明峯が瑩山の「我に対する者は誰だ」という質問に答えることができなかったため、語録を貪り読んでその答えを見つけようとしていると、それを見た瑩山は、明峯を叱ってしまいます。また別の時の質問にも答えられない。そこで明峯は、質問の言葉を紙に書き柱に貼って毎日焼香礼拝していた。それを見た瑩山は、「師の言葉を宝のように大切にする者は、いずれは大器となるであろう」と讃えています。このように瑩山は明峯に対して、折に触れて怒鳴ってみたり、優しく接してみたりして育てようとしていることが分ります。また、峨山が瑩山の下にやって来た時、瑩山が「おまえはわが宗の器である」と言うと、峨山は「私の母は天台宗の世話になっているので、宗派を変えるわけにはいきません」と言うと、瑩山は突然、自分の着ていた直裰(じきとつ)を脱いで、峨山に羽織らせたのです。これによって峨山は入門を決意しています。このような話を見ていくと、瑩山は弟子を引き付ける力がとてもあった人だったと思います。

 瑩山は、生涯に亘って明峯を「哲侍者」と呼んでおり、それは侍者を退いた後でも同じで、ニックネームのようになっていたようです。これは、瑩山が明峯を認めていた証のような気がします。また、瑩山は示寂を前に多くの弟子の中から、四門人六兄弟を定めていますが、特に明峯・無涯・峨山・壺庵の四門人は永光寺を守る四人であり、この中で瑩山は、嗣法の順に従って住持を務めるよう指示しています。輪住制の元になるような考え方がここに表れています。ただ、実際に輪住制に移行するのは瑩山示寂後十数年を経過してからでした。

 このように瑩山には多くの弟子がいましたが、明峯も多くの弟子を育てています。『血脈宗派』には二一人、『大乗聯芳志』や『鷲峰聯芳系譜』には二六人、『日本洞上宗派図』には三四人、『曹洞宗全書大系譜』には三七人の名が挙げられています。そしてその中に女性が多いのが目立ちます。これは、瑩山や峨山も同様で、当時の曹洞宗では男女の区別をせずに平等に接化していたことが窺われます。

 これらの明峯の弟子たちの中には、もともと瑩山の弟子だった者が多く見られます。 師匠の示寂後、その弟子を引き受けて嗣法しているのです。例えば、祇陀大智や松岸旨淵などがそうです。それに対して峨山の弟子にはそういう者はいません。これを見ていくと、峨山が新たな弟子を開拓していったのに対して、明峯は師匠の弟子たちを何とか一人前に育てていこうとしていたことが分ります。(河)

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