曹洞宗は、室町時代から江戸時代初期にかけて飛躍的な発展をとげました。現在では全国に一万四千ヶ寺を擁し、単独の宗派としては最大の規模を誇っています。
このように、曹洞宗が全国に広まる際に、その担い手になったのは多くの民衆達でした。一般に、禅宗は武士が担い、浄土真宗は民衆と農民と武士が支えたと考えられていますが、そうした考え方は改められるべきでしょう。
また、曹洞宗が広まった地域に関しては、第一に山間部、第二に交通の要衝、第三に農村地域が挙げられます。
まず、山間部での曹洞宗の展開を見てみましょう。ここでは、山岳信仰との密接な関係が窺われます。
例えば、富山県の立山地方で活躍した大徹宗令(1333―1408)は、立山信仰と深い関係を持っていました。彼は、樵夫(きこり)に姿を変えた立山権現(神)に授戒を行い、その権現から寄進された巨木を用いて立山寺を建立したと伝えられています。また、彼の弟子達は立山の参詣道に寺院を建立し、同派の発展を支えました。
一方、了庵慧明(1337―1411)は神奈川県の大山で活躍しました。彼は、同地方の鎮守である箱根権現に血脈を授け、その返礼として、芦ノ湖の水をその地に湧出させたと伝えられています。また、了庵は近隣の村の飯沢明神や矢倉沢明神にも説法を行ったと言われています。さらに、弟子の道了は、小田原の最乗寺の伽藍を建立する際に活躍した人物ですが、後に天狗になって伽藍を守護したと言い伝えられています。こうした了庵や弟子達の活動は、既存の山岳信仰に、新しい信仰の形態を与えるものだったと考えられます。
次に、交通の要衝での展開を見てみましょう。ここでは源翁心昭(1329―1400)に注目したいと思います。彼は、島根県から福島県までの非常に広い範囲で活躍し、約20カ寺を建立したと言われています。
その中で、茨城県の安穏寺には巨大な石塔が残されています。この石塔や彼の他の事跡から推察すると、彼の周辺には石工集団が存在したのではないでしょうか。と言うのも、寺院を建立する時には土台となる礎石が必要ですが、源翁自身が指揮をとり、石工集団を統率していたのではないかと思われるのです。
また、彼は福島県にある熱塩温泉の示現寺を再興しました。そこでは、何らかの形で温泉の開発にも関わったと思われます。
さらに、彼の逸話で有名なのが、栃木県の那須高原にある殺生石の話です。旅人にいたずらをする魑魅魍魎を殺生石に封じ込め、それを杖で割って退治したということですが、そこは有毒ガスが蔓延する地域でした。ですから、実際には退治ではなくて、有毒ガスを避ける新しい道路の敷設だったと推測されます。
このように、源翁は各地を行脚(あんぎゃ)する際に、職能集団とともに行動し、それぞれの地域の開発等で、多方面の活躍をしたと考えられるのです。
今度は、農村地域について考えましょう。ここでは、寺院の持つ二つの役割、すなわち、地域内の調停の役割と、主従関係の確認の役割について考えたいと思います。
一つ目の地域内の調停の役割とは、中世の社会において、重税の苦しみから逃れて離散した農民を、寺院が保護するという「駆け込み寺」の役割です。例えば、戦国時代に渥美半島を治めていた戸田氏は、離散した農民と領主との調停役を寺院に期待していました。そのため、同氏は領国を経営する際に、寺院を聖域として認めていたのです。
もう一つの主従関係の確認という役割については、次のような事例が挙げられます。
天正年間(1573―1592)の頃、兵庫県の永澤寺では、年始に旦那と家臣達が寺院を訪れ、湯屋の接待を受けるという行事がありました。その際に、客人を接待する寺院側の人物が、相手の身分に応じて異なっていたというのです。具体的には、旦那は住職が接待し、家臣達は維那や侍香という役職の僧侶が接待し、その他の従者は庫裏の僧侶が対応するという具合です。それによって、下剋上の風潮のために主従関係が不安定な時代にあっても、一年に一度、寺院の中で上下関係が再確認されるという機能が果たされていたのです。つまり、当時の社会の中で、寺院は聖なる特殊性を保っていたと言うことができます。
では最後に、論題にもある東南海大地震に触れておきましょう。曹洞宗の発展との関係で注目すべきなのは、明応7年(1498)の明応地震です。記録によれば、この地震では、紀伊半島から江戸湾までの広い範囲が、多大な被害を受けたということです。
この大地震にちなんで、松堂高盛(1431―1505)は僧侶や信者への説法を行いました。その中で彼は、人々が神仏に対してみだりに祭酒を奉納し、託宣を受け、その加護を期待することを批判し、むしろ災害から逃れるためには、自己の行いを正すべきだと説いています。具体的には、僧侶は仏・法・僧の三宝に帰依して戒律を守り、在俗者は三宝を信仰して心の安定をはかるとともに、倫理を守って行動すべきだというのです。つまり、従来の宗教的な観念を打破し、自分達の力で災害から脱することを説いたのです。しかも、彼の説法が在俗者にも向けられていたということは、松堂の主張が民衆の意識に寄り添うものであったことを窺わせます。
このように、当時の曹洞宗の発展は、指導者達が様々な知恵や能力を最大限に活用する一方で、僧俗がともに厳しい現実に立ち向かうことによって生み出された結果だったと言えるでしょう。