私が所属する全国青少年教化協議会は、仏教精神に基づく青少年の健全育成を目指して60余の伝統仏教教団が集まって発足し、寺や地域における日曜学校、子ども会の運営促進、指導者の育成を主に行ってきました。近年では、不登校、いじめなどや少子高齢化が問題となり、子どもから高齢者までトータルケアを行う支援活動に変化してきました。その一つの帰結が、臨床仏教師の育成と、そのための養成プログラムの実施です。
臨床仏教は、エンゲイジド・ブディズムに近いもので、これには、社会参加の側面(ソーシャリティー・エンゲイジド・ブディズム)と、精神性についての洞察や探求、実践の側面(スピリチュアリー・エンゲイジド・ブディズム)の二つがあると思います。仏教精神に基づく社会の変革と自己の精神性の変革、社会の開発と自己の開発を同時に行うことが、このエンゲイジド・ブディズムの本来の意味と考えています。その上で、臨床仏教の概念を、「個の霊的な両域、及び人間の生老病死にまつわる様々な社会事象における苦悩に向き合う仏教の様態」と一応定義しておきます。
臨床仏教研究所では、臨床仏教を実践する僧侶や仏教者、すなわち「臨床仏教師」育成のプログラムを平成25年度より実施することにしました。これは、仏教版のCPE(クリニカル・パストラル・エデュケーション)プログラムと言えます。アメリカでは、社会資源の一つとして宗教的リソースがとても重要視されています。教会や聖職者が社会的に重要な機能を持っており、その中心的な役割を担うのが、このプログラムを受けた聖職者です。一般にチャプレンと呼ばれ、彼らを育成するプログラムが、80年代からキリスト教系大学の神学部などで実施されてきました。仏教版のCPEは、日本に先立ち台湾で実施されております。
台湾では90年代から病院付きのチャプレンが育成されるようになりました。そのために1994年に「仏教蓮華基金会」が設立され、98年からは臨床仏教宗教師育成のためのプログラムが正式に開講、07年には「臨床仏教学協会」が結成されました。これは、宗派や所属を超えて仏教者がいかに臨床現場に取り組むかを議論する学会のようなものです。今回これを参考にして、「臨床仏教師養成プログラム」を開設しました。
台湾での臨床仏教宗教師が目指すのは「安寧共照」「安寧病房」「安寧居家」の理念実現です。これは、死を目前にした方を、チームケアを通じて見送ろうと、そのために病室や自宅を安らかな場にしようという意味です。医師、看護師、臨床心理士、ソーシャルワーカー、臨床仏教宗教師などがチームとなり、患者を看取ることを目指しています。そして、それには患者の家族のケアも含まれます。
日本の仏教は「葬式仏教」と揶揄されることがあります。しかしながら、葬式や法事は、身内を亡くした遺族への最大のグリーフケアの場でもあり、グリーフ(悲嘆)を癒し日常生活で一歩前に進むための重要な臨床の場です。これは宗教者にしかできないことです。目に見える命との繋がりを失ったあと、見えない命との繋がりを再構築してもらうのが、ケアの要点になります。その意味では、死を迎えた方々に寄添い看取りに携わること、そして、遺族のグリーフワークを支援することが、今日の日本の僧侶や宗教者に求められていることと感じています。
台湾の臨床仏教宗教師は、死を迎える方々に次のような宗教的ケアを行っています。余命数カ月という「病状告知」を受けた患者に、自分の死を受容するための支援を行います(接受死亡)。次に仏の教えに帰依し、実践する段階に入ります(依持仏法)。毎朝仏堂で一緒に経を唱えます。患者は周りへの言葉使いや接し方が少しずつ変わってきます。そうしていくうちに、「成立霊性」の段階が訪れ、患者から死への恐怖心が消え、家族やスタッフに対して感謝の言葉を語るようにもなります。そして、最終的に「成仏之道」の段階が訪れ旅立つのです。
これらのプロセスの具体的な方法として台湾では次の6つの法門を掲げています。念仏法・帰依法門・禅修法門・懺悔(さんげ)法門・臨終説法法門・衆善法門です。臨床仏教宗教師は患者のスピリチュアリティ、あるいは宗教的な欲求に応じて、これらの法門を提示し選択して実践することを促します。成仏の道の案内役ということになるでしょう。
臨床仏教の「臨床」は「生老病死にまつわるあらゆる苦しみの現場」です。緩和ケアの現場をはじめ、自死、貧困、差別など様々な苦しみの現場を想定しています。日本における臨床仏教師養成プログラムが目指すのは人の誕生から旅立ちまで、精神面でのトータルケアができる専門家の育成です。近年、仏教界と一般社会の協働のあり方が再認識され、様々な社会問題や、そこに生じる心のケアに取り組む僧侶が見られるようになる一方で、現場で活動する方々からは、仏教者の社会貢献活動について、総合的、体系的に学ぶ機会が少なく、仏教者としてどう振舞うべきか悩んでいるとの声も聞かれ、体系的な学習システム、プログラムがどうしても必要なのです。
臨床仏教師は、「人のこころをしっかりと聴ける存在」と言えます。よく私は、法話などで「無財の七施」の教えを引用しますが、これにもう一つ加えて「無財の八施」というお話しをします。そのもう一つとは「聴施」だと申し上げています。相手の立場に立ちながらその人の心を、ひたすら聴き寄添うということ。この聴施がしっかりと実践できる仏教者、慈悲の精神に貫かれた臨床仏教師を一人でも多く育てたいと考えています。