愛知学院大学 禅研究所 禅について

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研究会レポート 平成25年度

禅宗儀礼の研究 ―儀礼の変遷過程とその背景―鶴見大学仏教文化研究所所員 尾崎 正善

 禅宗の特徴の一つとして、清規(しんぎ)の尊重が挙げられます。清規とは、禅宗寺院における規範や、儀礼の内容を詳細に記したもので、最初のものは唐の百丈禅師によって制定されたと言われています。

 曹洞宗でも、古くから清規が尊重されてきましたが、特に儀礼に関する内容は、時代とともに変化してきました。その変化は、もとからあった内容が変更される場合と、新たに付加される場合という二種類に分けられます。ただし、いずれの場合でも、そうした変化の背景には何らかの事情があったと考えられます。今回は、こうした清規の分析をとおして、曹洞宗における回向文(えこうもん)と法戦式(ほっせんしき)、それに成道会(じょうどうえ)の変遷をたどり、その理由を考えたいと思います。

 まずは回向文の変遷です。回向文とは、読経の功徳を仏や故人に振り向けて、祈りを表明する言葉です。ここでは、朝課の回向文と葬儀の回向文を見てみましょう。

 最初に、朝課の回向文についてです。瑩山禅師の遷化から約50年後に成立した『瑩山清規』(禅林寺本)では、読誦される経典の名前として、回向文の中に大悲呪(だいひしゅ)と消災呪が挙げられています。しかし、江戸時代の清規には、特定の経典名は示されていません。けれども、明治時代になると、再び普門品(ふもんぼん)と大悲呪と消災呪の名前が示され、読誦経典の固定化がなされました。

 功徳を回向すべき対象についても、当初は「護法の龍天、護法の諸天、日本国内大小神祇」がその対象とされていましたが、16世紀には各地域の土地神が数多く取り入れられるようになります。ところが、江戸時代になると、一転してそうした神々を削除するようになり、明治時代にはその傾向に拍車がかけられます。このような近世以降の変更の背後には、中央集権化を進めるために、法要のあり方を全国的に統一しようとした政治的な目的を読み解くことができます。

 こうした興味深い変更は、葬儀の回向文にも見られます。葬儀の回向文は、中国の宋代に編纂された『禅苑(ぜんねん)清規』の記述がもとになっています。それが、『瑩山清規』に取り入れられた後、様々な変遷を経て現在に至っています。一例を挙げれば、『禅苑清規』に「百年弘道(ぐどう)の身を焚いて……往生を資助す」という一文がありますが、この中の「弘道」という部分に、『瑩山清規』は「弘道」と「虚幻(こげん)」という二つの語を併記しています。また、「往生を資助す」という部分も、16世紀の清規では「雲程を資助す」と改められています。このように、曹洞宗の葬儀では、徐々に浄土に関わる言葉を削除することで、現在の様式を成立させたと言うことができるのです。

 次に、法戦式について考えてみます。法戦式とは、首座(しゅそ)と呼ばれる筆頭の修行僧が、他の修行僧達と問答を行い、それによって一人前の僧侶になるための重要な儀式です。しかし、この法戦式の様式も、今と昔ではかなり異なっていたようです。例えば、現在では一般には行われていませんが、法戦式の際に首座が須弥(しゅみ)壇上に登り、住職に代わって法語を述べる「秉払(ひんぽつ)」という作法がありました。しかし、それも当初は首座を含めた5人が行うものだったのですが、明治時代に首座だけが行うことになりました。また、問答にしても、当初は5人が行っていたようですが、それも江戸時代後半には3人になり、最終的に現在のように首座だけが行うことになりました。

 一方、法戦式の前日に行われる「本則行茶」という儀式は、法戦式における問答(本則)の説明を行うものですが、明治時代に新たに加えられたものです。その理由は、既に江戸時代の後半にさかのぼります。当時著された『韜菴(とうあん)清規』には、法戦式において、意味もわからずに問答を行う者がいるから、住職をはじめとする指導的な者は、あらかじめよく教導しておかなければならないと記されています。つまり、この頃から、その内容を理解できないまま、形だけの問答を行う者が増えていたことが窺われるのです。

 最後に、釈尊の悟りを記念する成道会について考えてみましょう。道元禅師は、「私が最初に成道会を日本に伝えた」と自負する言葉を残されており、今でも曹洞宗では、この成道会を非常に重要視しています。しかし、今日では、12月1日から8日まで坐禅のみを行なう「摂心(せっしん)」が成道会だと考えられていますが、道元禅師が行っていた成道会は、むしろ法要を中心とするものだったようです。瑩山禅師の頃も、12月1日からの摂心はなく、7日からの徹夜坐禅のみが行われていました。摂心の実修が確認できるのは、15世紀末になってからのことです。そして、現在のように摂心が中心になったのは、江戸時代に入ってからのことでした。

 このように、曹洞宗の儀式は時代とともに変化してきました。そこには、それぞれの時代における曹洞宗の実情や、それを取り巻く日本社会の変容が影響しています。儀礼は思想の表れであり、その作法を規定する清規は、思想の変遷を映す鏡だと言うことができるでしょう。

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