愛知学院大学 禅研究所 禅について

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研究会レポート 平成26年度

道元禅師伝記史料について本学教養部客員教授 吉田 道興

今回は、禅研究所の研究会を私の最終講義に充てていただき、花道を作っていただいたことに御礼申し上げます。

今日は、一年ほど前に出版した『道元禅師伝記史料集成』(あるむ)を使いながら、お話をしたいと思います。

まず、私が道元禅師の伝記研究を始めたきっかけは、昭和44年に角川書店から『仏教の思想11―古仏のまねび〈道元〉』が出版されたことです。その中の、梅原猛さんと高崎直道博士の対談で、道元禅師の母親に関連して、『平家物語』のエピソードが紹介されました。木曽義仲が、絶世の美女で藤原基房の娘であった伊子(いし)をめとり、その義仲が亡くなった後、源通みち親ちかと再婚したという話がありました。私には刺激が強かったのですが、この逸話の詳細を探りたいと思ったのです。

本書には道元禅師の関連史料を六三本集成していますが、その成立年代を、初期(1321−1590年)・中期(1646−1694年)・後期(1702−1852年)に分けてみます。

初期は7本。瑩山禅師の在世時代から『建撕記』古写本で、その頃に最初期の伝記史料が編集されました。

中期は17本。『継灯録』や『道元和尚行録』などが中心で、道元禅師伝に様々な記述が追加された時代です。

後期は39本。『本朝高僧伝』や、面山瑞方が編集した『永平実録』や『訂補建撕記』などが入ります。

これらの分類から、初期は限られた方しか見ることはできないが、中期から後期にかけては、出版などを通して多くの人の目に触れることになり、伝記史料が雪だるま式に増えたことが分かります。

また、史料を分類すると、道元禅師伝成立の背景として、二つのことが分かります。(1)日本仏教は祖師信仰が強く、平安時代以降は教祖の神聖化=偉人化・聖人化の傾向があり、道元禅師の伝記にもその影響が見られます。(2)少ない史料を元に歴史的な話を展開する時、そこには伝記作者の力量が問われます。江戸期の儒学者である穂積以貫(ほづみいかん)の『難波土産(なにわみやげ)』に、近松門左衛門の言葉として「虚実皮膜」が見えます。「虚」と「実」は、歴史的事実とフィクション的なもの、その合間を「皮膜」と表現します。要するに、芸術の面白みは史実だけでは足りないということです。脚色や粉飾によって、味や面白みや深さが出るわけで、当初の限定的な内容から、様々な文脈が増えて伝記が充実していくのです。

この状況を、道元禅師の両親の家系と名前から考えてみます。当初は「姓源氏、村上天皇九代苗裔(びょうえい)、後中書王八世(七世)遺胤」(『三祖行業記』)とあって、出身の家柄などが記されるのみです。これがだんだん、久我家の出身となっていき、両親の名前も明示されていきます。父の名前として挙がっているのは源通忠(みちただ)、通親、通具(みちとも)とありますが、古いのは延宝本『建撕記』の通忠です。通親については、中期『僧譜冠字韻録』などで指摘されます。また、後期の面山編『永平実録』などに「久我氏家譜」が引用されて、通親説と合わせて通具説も紹介されていきます。つまり、当初は通忠で、その後通親、通具と出てくるのです。最近の研究では、通具説に傾きつつあります。母については、能円(のうえん)の娘という説が中期の『永平紀年録』『禅師行状記』などに見え、その後、藤原基房の娘である伊子の名前が出て来ます。伊子については、木曽義仲の話を考えると、悲劇のヒロインのようなイメージになるので、その後多用されています。ただし、最近の研究では、母の名前は良く分からないとされます。

また、中国留学時の話題に「新到列位問題」があります。私は、この話はなかったと考えています。中国と日本では受戒制度が違い、日本の大乗戒、最澄の大乗戒壇は、中国では認めていません。それを栄西禅師も明全禅師も知っていて、現在永平寺に残る明全禅師の戒牒は、方便的に東大寺から取得したものです。おそらく、道元禅師のものも存在したことでしょう。しかし、その制度の違いについて、日本と違うから是正せよと、新到の若い道元禅師が、どうしてクレームを付けることができるのでしょうか。天童山だけではなく、続いて五山、最後は寧宗皇帝にまで話がいったとありますが、これは、道元禅師の立場を高揚するために作られた話でしょう。正しい歴史とは一線を画する必要があると考えます。

それから、道元禅師に関連した奇瑞として「一葉観音」を紹介します。初期の古写本『建撕記』では、入宋時、暴風雨に遭われて、『観音経』を唱えたところ、波が静まり一葉観音が現れたという記述です。後には帰国する途中で観音が現れたことになっています。この話を、弘法大師空海の伝記と対比してみます。空海が入唐時、難破しかけると、涌夕(ゆうせき)観音が現れたとされます。『観音経』では、唱えた時・場面で観音が出現しますが、両祖師の話はそれにぴったりです。そしてこれは、伝記作者が祖師信仰と観音信仰との繋がりを狙ったものだと考えられます。伝記作者は、道元禅師の伝記に托して、その時代の人々が望むことを取り入れます。今回、本書による史料集成の結果、諸史料の文脈の前後関係が理解できました。

さて、道元禅師の伝記は、まだ多くの未解明な点を有します。従来の伝記作者は、道元禅師を敬慕する心を持ち、長い年月をかけて、高祖像を形成してきました。私は、教団史における祖師像の変遷過程を、多少なりともご紹介できたかと思う次第です。※本発表の詳細は、『禅研究所紀要』第四三号に収録された吉田先生の論文をご参照下さい。

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