愛知学院大学 禅研究所 禅について

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研究会レポート 平成27年度

永平寺と顕密仏教 ―『知事清規』にみる道元禅師の僧団運営―駒澤大学仏教学部教授 石井清純

 本日はお集まりいただきまして、ありがとうございます。

 「永平寺と顕密仏教」ということで、タイトルを付けました。この顕密仏教というのが、日本の中世仏教史では、いろいろと議論になっています。

 同じ中世の時代につくり上げられた永平寺というものが、顕密仏教の中で、どのような位置づけになるのかというのが、今回のお話の中心です。

 まず「『永平広録』に見る道元禅師の説示意識」ですが、『正法眼蔵』の示衆は、道元禅師の日本における活動の前半に非常に集中しており、永平寺に入られた後は、『永平広録』における上堂語というものが中心となりました。上堂は須弥壇の上で、正式な行持の一環としておこなわれるものです。

 その上堂に注目しますと、永平寺へ移動した寛元二年以降、宝治元年は鎌倉に行っていましたが、それ以外は毎年のように典座・監寺・知客など、叢林の運営に当たる役職の任免にあたって、上堂が定期的に行われました。

 そのようなかたちで温度差が明確に見られるということが、最初にご指摘をさせていただきたいところです。つまり、永平寺では、知事・頭首の交替の上堂が、清規に則って行われ、叢林運営の意識が見られます。

 その前提に立って、『知事清規』の内容を見ていきます。『知事清規』は一二四六年六月一五日、道元禅師が大仏寺を永平寺に改称された日に示されました。

前半は、知事に任じられるものは、修行の進んだ僧侶であることを、祖師の例を取って証明しています。まさしく『典座教訓』と同じ流れです。

 後半は、『禅苑清規』を丸々引きます。『禅苑清規』の知事の章、各知事の章を丸々引いて、それに対して自分のコメントを付けていくという内容になっています。つまり『禅苑清規』の注釈書的な性格になっています。

 『禅苑清規』の文章と、『知事清規』の道元禅師のコメントを比較すると、まず『禅苑清規』の「監院」では、「監院の一職は、総じて院門の諸事を領ず」とされ、いわゆる叢林の事務局長のような位置づけです。

 そして、監院に力があれば自ら諸事を行い、できなければ他と相談するように説きます。しかし、『知事清規』ではまず、「監院の職は、為公をこれ務む」とあって、平等な心を持ってこれを務めなさいということを主張している。さらに、必ず他の知事と話し合いをすべきだとされます。この辺りが、道元禅師のコメントの特徴的な部分です。

それともう一つ、『禅苑清規』では、最終的には、一番大きい事は住職に相談しなさいと書いてありますが、『知事清規』では、それはありません。これも特徴的なだと思います。

 住持人に相談して事にあたれということを、道元禅師がおっしゃったとしたら、つまり、私に相談しなさいということでしょう。それを道元禅師は、あえて外してしまいます。ここが大変興味深いところです。自分がいなくなった後でも、ちゃんと運営されるようにするためには、何でもかんでも相談されては困ると思われたのでしょう。それが道元禅師なりの、自分の存在価値を過小評価していたことになると思います。道元禅師ご自身も含めて、全体的に修行僧を並列に考えたのだと思います。その上下関係はなるべく付けないようにしながら、中国から伝わってきた、総理運営の形式というものは、しっかりと用いて、永平寺の運営に落とし込んでいくという意識があったと思います。

 だから、なるべくみんなで話し合うように説かれます。これは永平寺の規模も意識しなければいけないところです。実際には数十人だったと考えられています。その中で、特に波著寺系や天台系、白山天台系、いろいろな人々が集まって永平寺の僧団がつくられていったと考えると、やはり話し合いが強調された理由はわかります。

 次は「在家者」についてです。京都におられた頃は然、お寺というのは、いまの檀家制度とは違うとしても、中国からもそうです。在家下戸者という者がいて運営されていくということになります。それはどのような位置づけになっていたのでしょうか。永平寺では修行僧に対して、在家者の対応方法を説くという形でしか見えてきません。それは、経済的な支援に対してしっかりと僧侶が応えていかなければならないという形で捉えられます。つまり、修行僧が教団の中心にいて、その人たちを供養して功徳を得たいと考えている在家者が集うという教団形式を意識されたのだと思います。

 この運営形式は、中世的文脈ではどういう位置づけになるのでしょうか。

顕密仏教との関連ですが、経済的基盤としては、寄進による造寺造塔・寺領確保があります。つまり、顕密仏教のトップは貴族の出身なのですが、自分の出身のところや、その他からたくさんの寄進をもらい、伽藍を建てる。あるいは荘園を確保します。

 それに対して、民衆的基盤というのがあります。これは、神仏の名のもとの信仰が基盤にあります。神仏の名によって、「罰が当たるよ」といって人々を管理していく。ここから宗徒組織に発展するのです。黒田さんの論だと、道元禅師や親鸞聖人などの開祖はみんな異端です。けれどもその後、教団組織ができてくると、みんな顕密的になってしまうのです。

しかし、松尾剛次先生が、黒田先生に反論をされています。その説は、それまでの仏教は国家仏教であり、集団的救済を目指すものである。それに対して、中世仏教は、個人救済に視点を移したというわけです。その中で、改革派はその中心を担っていたと考えるべきだということです。

黒田先生は、教団運営の全体的な形を見て、それにあっているか否かで、中世・非中世をみます。松尾先生は教団の形式はそれぞれバラバラで、画一的に見るのは無理だとされ、それよりも、どこを目指していたのかを見ようという説です。私はまさしくこっちだと思います。

そこで永平寺について見てみると、どうしても五山を考えなければなりません。禅宗では中国で確立された五山制度が、歴然として存在しています。『禅苑清規』は、その制度に基づいています。

それはすべて朝廷・幕府によって管理統制され、官立のお寺となり、お坊さんはみんな国家公務員みたいなもので住持任命権も政府が持っています。ただし、直接の人選は僧録司が行います。

そこで、知事は、政府より派遣されるようなお役人だというのが、基本的な五山の形です。

永平寺は外部の運営形態としては、中国の五山制度に類似した形を持っています。しかし、経済的基盤は外護者と周辺の在家信者によるところが大きい。そうなると、顕密仏教的な側面が非常に強い。永平寺では、在家信者の波多野氏という存在が大きいですね。波多野氏と、その他周辺のコミュニティが、大きな役割を果たしていくという意味において、黒田理論に基づいた、顕密的な人間関係、組織運営、組織構築は外せなかった。

ですから私は、中世仏教の中心は顕密仏教だという言い方は間違っていて、日本でオレタを運営する上では、顕密仏教の形にならざるを得ない。その中で、道元禅師は国から分断されて、それぞれの修行僧や外護者の救済に向かったという考え方が自然だろうと考えています。

道元禅師の考え方は、まずは中国的な叢林運営ですが、五山は意識されていません。禅宗の内部構造はしっかり意識されていながら、国との関係は捨象されて、その上で日本的な、いわゆる在家信者との関係を築き上げていこうとしたのが永平寺の僧団です。また、道元禅師が、自分という存在が実はものすごく大きいことを、自身で少し意識して進んでいけば、方向は変わったという気がします。門下の話し合いはうまくいかず、後に「三代相論」が起きるからです。その意味では、瑩山禅師がまた、新たな組織化を行い、そこに初めて、曹洞宗という組織が出来上がったのであれば、これは故あることだと考えています。

駆け足でしたが、以上で終わらせていただきます。ご清聴ありがとうございました。

※本発表の詳細は、『禅研究所紀要』第四四号に収録された研究会の記録をご参照下さい。

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