愛知学院大学 禅研究所 禅について

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研究会レポート 平成28年度

初期禅宗と最澄の円頓戒 ―石田瑞麿・鏡島元隆両氏の所論に反駁す―東洋大学文学部教授 伊吹敦

 最近、道璿(どうせん)(688〜763)や最澄(767〜822)に関する論文を発表し、道璿がもたらした初期の禅宗が、奈良・平安初期の仏教界で、従来考えられていたよりも大きな反響を得ており、最澄はその影響を受けて「日本天台宗」という独自の思想を打ち立て、日本仏教史に大きな足跡を残したと指摘しました。

 今回は特に、最澄における道璿の影響や、禅と菩薩戒(ぼさつかい)(円頓戒(えんどんかい))について、石田瑞麿氏と鏡島元隆氏の所論に対しそれぞれ反論を行います。

 まず、石田氏は道璿の最澄への影響を否定しようとして、五つの論点を挙げました。

 ①道璿が『梵網経(ぼんもうきょう)』を重んじたことは事実ですが、そのことが当時の社会に影響を与えなかったという論点について、道璿の文章が日本天台宗の円珍(えんちん)(814〜891)に引用されています。また、道璿が当時の日本の貴族に菩薩戒を授けており、社会的影響がなかったとはいえません。

 ②道璿は菩薩戒を重んじたものの、最澄が唱えた円頓戒とは性格が全く異なるという指摘についてですが、道璿が「開小入大(かいしょうにゅうだい)」を立場としたのは、小乗戒を包摂するという形で大乗戒の絶対性を主張しており、その点で最澄の立場と完全に一致しています。

 ③最澄が行表を介して道璿から承け継いだのは「天台」であって、「円戒」ではないという論点ですが、最澄が「一乗」という表現の中に「禅」や「天台」だけでなく、「菩薩戒」をも含めていたことは明らかであり、その菩薩戒の意義を最初に認識したのも、行表の指導と、その会下で得た道璿の『註菩薩戒経』であったと考えられ、最澄が自身の立場を確立するにあたっては道璿の菩薩戒思想の影響を強く受けたと見られます。

 ④最澄の言葉で禅との関連を示すものとされてきた「虚空不動(こくうふどう)の三学」については、十分な根據にならないという見解ですが、道璿の師、普寂(ふじゃく)の周囲で作られた北宗禅の綱要書である『大乗無生方便門(だいじょうむしょうほうべんもん)』の「授菩薩戒儀」に相当する部分に、この「虚空不動の三学」と共通する思想や観法が説かれているため、そこに禅思想との関連を認めるのは何ら不自然ではありません。

⑤「虚空不動戒」を禅と結び付けることは、最澄の認識というよりも、弟子の光定(こうじょう)意図的な創作と見做すべきであるという見解についてですが、それは光定の作為を待たずとも、「虚空不動の三学」も、達磨の「余は虚空なり」との言葉も、同じく道璿に由来するもので、もともと密接不可分な関係にあると認められます。また、④も踏まえ、光定としては、道璿や最澄の思想を正しく理解し、それを素直に展開させたものと見做すべきです。

 続いて、鏡島元隆氏への反論は、論点が2点あります。

 ①道璿が普寂から学んで行表・最澄に伝えたのは「禅」であって「菩薩戒」ではないという論点について、鏡島氏は最澄が学んだ「禅法」の系譜と「戒法」(菩薩戒)の系譜を区別すべきことを力説するが、少なくとも初期の禅宗では、この両者は一体の関係にあったというのが事実であり、実際、「禅法」を学んだのであれば、「戒法」も学んだとみなければなりません。

 ②道璿が学んだ北宗禅では、円頓戒が成立する要件である「三学の一致」を説かないから、最澄が道璿の菩薩戒思想の影響を受けたとは認められないという論点について、戒律は菩薩戒だけで充分とするのが禅本来の立場であり、北宗でも「三学の一致」は常識であったという点で、鏡島氏の事実誤認です。特に、北宗禅の綱要書である『観心論』は如来蔵思想に立脚し、「自性清浄心」において捉えられた三学は、「虚空不動の三学」と同じく一体の三学であり、道璿が馴染んでいた禅思想で、「三学の一致」が説かれていたことになります。

以上、石田・鏡島両氏の論点の問題点を明らかにしました。両氏は、道璿あるいは禅が、最澄の菩薩戒思想に与えた影響を努めて否定しようとしますが、最澄や光定は大乗戒独立運動に関連するゥ著作の中で、しばしば道璿に言及し、道璿への崇敬が見えます。両氏がそれを素直に受け入れなかったのは、種々の先入観があったからに外なりません。禅宗については、「禅と菩薩戒は、元来、別個のものであるとする観念」「北宗禅と南宗禅の間には思想的に大きな懸隔があるはずだとする観念」等であり、最澄の思想については、「最澄において円・密・禅・戒の四宗が截然と区別されていたはずだという観念」「最澄はこれら四宗相承を主張したが、その意図は天台宗と円頓戒の正統性の確保にあり、禅の相承はその補強に過ぎなかったという観念」等であり、これらを組み合わせ上掲のような誤った主張を導き出したと言えます。

 しかし、禅に関する従来の観念も、最澄に関する従来の観念も、ともに否定されます。そして、今、最も必要なのは、後世の通念に囚われることなく最澄の思想をそのままに理解することなのです。

※本発表の詳細は、『禅研究所紀要』第四五号に収録された論文をご参照下さい。

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