本日は曹洞宗の輪住制(りんじゅうせい)についてお話したいと思います。
現在の曹洞宗各寺院には住職がおられます。当たり前ですが、住職は1人しかおりません。1つのお寺に2人の住職がいることはないですね。特段の事情がない限り、1人の方がずっと住職をされます。これを独住制(どくじゅうせい)といいます。
これに対して、現在はなくなりましたが、師匠が開いたお寺に弟子の人々が1年程度の期間に交代で住職を務め、寺院を護持する制度を輪住制と呼び、輪住する住職を輪住住持(じゅうじ)、輪番(りんばん)住持と言います。輪住制を用いたのは、各門派の中心的な寺院で、全国34箇所の寺院で輪住制が採られたとされます。愛知県内では、福厳寺(ふくごんじ)(小牧市)や乾坤院(けんこんいん)(知多郡東浦町)が輪住制を敷いていました。
輪住制という制度は、曹洞宗の地方展開にとって大きな役割を果たした制度だと言われています。まず、開山(かいさん)の弟子たちが交代で住職に入りますから、1人が住持していて何か問題があって荒廃してしまう危険性を未然に防ぐことができます。もし荒廃しそうになったならば、他の弟子が住持すればいいわけです。このようにすることで、自分たちの師匠の開いた寺院を護持していこうという気運が生じ、門派が結束していきます。
もう1つ、輪住制のメリットについて、相模国小田原(さがみのくにおだわら)の最乗寺(さいじょうじ)を例に考えてみたいと思います。最乗寺の場合、関東甲信越・東北地方・東海地方に弟子たちが開いた寺院があります。各地から1年交代で新たな住職が上がってきますから、最乗寺へ来れば、関東甲信越・東北・東海それぞれの事情が分かるのです。
各地域の情勢を知ることで、その恩恵に預かったのは僧侶だけではありません。輪住する僧侶を支援する国人領主(こくじんりょうしゅ)や戦国大名も僧侶を介して各地の情勢を知ることができたのです。こうしてみると、輪住制度というものは、宗門内だけで完結するのではなく、地域社会との関わりにおいて理解する必要のあることが分かります。
いまいちど、最乗寺を例に挙げてみたいと思います。ここは応永元年(1394)に了庵慧明(りょうあんえみょう)が開いた寺院です。お寺さんです。了庵のもとからは優秀な弟子が多数輩出され、関東甲信越・東北・東海に教線を拡大し、了庵下十六派(りょうあんかじゅうろくは)という曹洞宗の一大勢力を形成しました。
戦国期になると伊豆からやってきた北条(ほうじょう)氏が小田原城を拠点とし、関東地方を制圧するようになります。制圧を嫌って、北条氏と敵対した佐竹(さたけ)・上杉(うえすぎ)・宇都宮(うつのみや)・里見(さとみ)ら諸氏の領国には了庵派(りょうあんぱ)寺院が大名の菩提寺(ぼだいじ)として建立されていました。こうなりますと、北条氏と敵対する諸国の寺院から北条氏の支配する最乗寺へ輪番することは難しかったのではないかと考えています。
もう1つ、甲斐武田(かいたけだ)氏が最乗寺への輪住にとった対応を見てみたいと思います。
武田氏の領国( 甲斐(かい)・信濃(しなの)・西上州(にしじょうしゅう))にも最乗寺へ輪住する寺院が数箇寺ありました。
天正六年(1578)、武田氏の領国内で、最乗寺への輪住に誰が行くかをめぐって争論(そうろん)が起こります。本来であれば定津院(じょうしんいん)(信濃)から最乗寺の輪番住持を出す年だったのですが、そこに興因寺(こういんじ)(甲斐)が手を挙げ、争いに発展します。定津院と興因寺は、同じ拈笑派(ねんしょうは)に属しますが、定津院が派頭寺院(はとうじいん)ですので、寺格(じかく)から言えば、本寺にあたる定津院から最乗寺への輪番住持を出すのが当然の流れです。
この争論に関して、武田勝頼(かつより)が介入してきます。武田氏の領国内では、北高全祝(ほっこうぜんしゅく)という僧侶を僧録(そうろく)に任命して、曹洞宗の統制を行わせていましたが、そこへ勝頼は口を出したわけです。どのように口を出したのかといえば、最乗寺が輪住を依頼する書状の出し方に問題があるとしたのです。そして、最乗寺内で、どちらの寺院から輪住を招致するか再検討するよう命じます。しかし、問題は解決しませんでした。最終的には、最乗寺において定津院と興因寺が軍勢を出しあって合戦を繰り広げます。
定津院は禰津(ねづ)氏(武田氏配下)が外護し、興因寺は武田氏が外護する寺院でした。両寺の合戦は、武田氏家臣団の分裂を招きかねないことを意味していました。それゆえ、武田勝頼は輪住をめぐる争論に介入し、事態の沈静化を図っていたのです。
最終的に、天正6年の輪住には、興因寺が入っています。この輪住は、後代にも尾を引きます。
まず、天正6年以降、定津院からの輪住は止まり、それにかわって興因寺が輪住として入るようになり、拈笑派内の位次(いじ)が完全に逆転します。江戸時代になると、寺院間の本末関係が幕府の宗教政策のもとで確定していきますが、ここでも定津院は興因寺の末寺になってしまいます。何百年の間、定津院が派頭寺院の地位を守ってきましたが、たった1回の争論の結果で逆転してしまう。輪住というのは、非常に重要な意味を持っていたのです。
輪住制というものが、戦国大名にとっても、また曹洞宗各門派にとっても重要であったかというのが分かると思います。