愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅のこぼれ話  平成09年度

『伝燈録』現代語訳 こぼれ話(著・鈴木哲雄)

大学院の講義の科目であるのに、ここ十年ばかり『景徳伝燈録』を輪読して、まるで演習の科目となっている。それというのも、院生の語録に対する実力をつけることが緊要と痛感し、講義の大切さを感じながらも、その時間的余裕がないからである。講義分は各自の研究書の精読にまかせてしまっている。そんな痛みを持った演習だから、演習に熱が入る。

禅独特の言い回しに出会ったこともない人にとっては、茫然とするのみであろう。草茫々の草原に入りこんで、手さぐりで道を進むという具合である。場合によっては前進しているつもりが、同じところを徘徊していることにもなりかねない。

昔の城下町の名残りを残しているところでは、見定めて歩いているのに、またもとに戻ってしまうという奇妙な経験をする。外来者に対して巧妙に仕組んだ江戸時代の路巷である。

例えればちょうどそんな感じのする時もあるし、またやみくもに歩いてあらぬ方に出てしまうということもある。未知の世界に踏み込んだ時は、えてしてそんな体験をするであろう。それだから皆と協力して読み合って方向定めをするのがべ夕ーである。伝燈録の演習はそんな様子である。

それにしても皆さんよく努力するので、問答の現代語訳も、ことばの意味のとり方も、それなりに形を整え、さまになってくる。そんな時、助言者としての私はふくよかな喜びを感じる。

ところが灯台の役目をしなければならない当の私も、院生と同じように海に浮かぶ小舟となって彷徨しているというのが実情であるから、さまにならない。院生と一緒になって光(禅者のことば)を頼りに進んでいるというのが本音である。そんな中で一つ、うまく本意をとらえたのではないかという事例をあげてみよう。

投子大同(とうすだいどう)和尚のところに一人の修行僧がやってきた。投子和尚は僧に質問する。「久嚮疎山薑頭、莫便是否」。この問いにその僧は答えられなかった。50〜60年後、法眼宗(ほうげんしゅう)の祖となった清涼文益は、答えられなかった僧に代って、「嚮重和尚日久」とコメントをつけている。

さて漢文の部分をどう訳すかということである。「嚮」は「向」と同じであるが、ここの場合「響」とみないとどうも訳せない。そういう使い方があるかどうかわからないが、一応そうとった。

ところで私はてっきり薑頭(きょうじゅう)というのは飯頭(はんじゅう・ご飯係)・菜頭(さいじゅう・副食係)・園頭(えんじゅう・荘園管理係)と同じように理解して、はじかみ(しょうが)係ではないかと思った。

しかしそれにしては何とも意味が通じにくい。ただし江戸時代の禅宗の学聖無著道忠(むちゃくどうちゅう)の『禅林象器境(ぜんりんしょうきせん)』という禅の辞書には、ここのところを引いて、しょうが係の例文としている。しょうがはむずかしい作物だから、係を特別に付けてもよいかもしれない。「あなたは疎山寺(そざんじ)のしょうが係と聞いてますが、そうじゃないですか」という訳となろう。

でも何とも腑におちない。法眼のコメントも「以前からずっと和尚様の名が響きわたっていて、尊敬しています」となるわけであるが、木に竹をついだようでしっくりいかない。禅研紀要にこのままでは訳文を載せられない。

私はここのところで頭をかかえてしまった。すると院生の一人が、薑頭とは「がんこ者」というような意ではないか、現代中国語でも使うということを指摘してくれた。台湾の留学生も同調した。

さてその意でとってみると、会話は噛み合ってくるようである。それで「あなたは疎山寺の剛直の人と聞き及んでいるけど、そうでしょう」と訳し、法眼の代語も「以前からずっと和尚様を尊敬しております」と訳した。

法眼の代語は、大同の、がんこ者、という言葉を、柔らかではあるが、そっくり大同に返してしまっている。代語がいきいきとしてきた。ここのところの訳はひとまずこれで落ちつきを得た。

景徳伝燈録に代表されるような燈史類の問答、あるいは禅語録の言葉は禅機が横溢している。過去において禅僧は遊方し、力量ある師家の鉗鎚(けんつい)を受けてきた。その問答のすぐれたものが公案である。

ところで現在の曹洞宗では儀式として問答の行われる場はあるが、実生活の中では殆んど失われている。これはなぜだろうか。

道元禅が、証上の修(しょうじょうのしゅ)、修証一如としてとらえられる時、また、行を行仏として規定する時、始覚的な禅体験を通して証悟を得るという姿勢は払拭され、本覚論に陥りやすい。禅問答は体験を通して証悟をめざすという面は避けられない。証悟を体験しようとする切実な願いがあれば禅問答は大切となろう。証上の修の立場に立った時、公案の研究はどれだけの必要性があるだろうか。

禅宗の歴史研究は最終目的にはならない。しかも語録を読むということはどれだけの意味があるか、そこのところをしっかりさせないと、問答の面白さに流されるだけで、修に立った意味をなさない。一度しっかり確認しておかねばならぬことである。

(文学部教授)

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