愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅のこぼれ話  平成10年度

禅と象徴主義(著・長谷部幽蹊)

禅についてはこれまで多くの先覚によつて横説竪説されており、これに関心をもつ人には已に自明のことと思われるが、主題との関わりから、先ずそれが基本的には、正身端坐の行を通じて、自心の本源を究め、本来の面目を徹見し、宗教的真理性を自らの身心に具現しつつ、日常生活を通してそれを現実化する道である、と一応規定することから論を始めたい。

以上によって禅の本道が実参実究にあるのは明白であるが、ただ道の究極に至ることは決して容易ではない。そこで古来禅の祖師達は、その婆心より出づる説示だけでなく、さまざまな手段を講じて学道者を誘掖(ゆうえき)する試みをなしてきた。その事は震丹扶桑(しんたんふそう)の禅の歴史が証するところである。古今の禅匠達による接化(せっけ)の跡を辿ると、そこに巧みな象徴主義的手法が多く認められるので、この小論ではその点に注目して、しばらく閑言語を弄し論究してみようと思う。

ところで江戸時代の後期以降、わが国の美術作品が夥しく海外に流出した。そのうち浮世絵の表現手法は、後にヨーロッパの画家、とくに印象主義作家に多大の影響を与えたといわれている。

これが契機となって19世紀後半期、フランスにジャポネズリ(日本趣味)が流行し、ジャポニスムの盛行を見た。やや遅れて19世紀末には、マラルメ、ランボー、ボードレールに代表される、文芸上のサンボリスムが花開いた。

これら抽象主義、象徴主義芸術の成立には、日本的な発想ないし表現手法が根底をなしているとみられるのであり、さらにいえば、その本源は禅にあるといってよいであろう。

そしてまた近年、象徴主義は西欧世界で再び復活の気運に向かっているようである。ユングは、「世界はシンボルを介して語られる」と述べているが、最近刊行された『シンボル事典』の編者ジャン・シュヴァリエの言に、「今日シンボルは新たな脚光を浴びている」とあるように、ヨーロッパでは、宗教芸術の世界だけでなく、文化の巾広い領城に亙つて、象徴性に関わりのある現象を抽出し、その意義を再評価する動きが顕著に認められる。

こうした状況の中で、禅を象徴主義との関連に於て論ずることには、今日的視点から多少意味があると考えられるのである。

すでに初期仏教では菩提樹や法輪が崇拝の対象とされている。これらはいわば象徴崇拝(シンボルウォーシップ)に当るとみられるから、仏教には早くから象徴主義的表現手法が確立されていたことが知られる。

周知の如くモーセの十戒には、刻んだ像を作ることの禁制が存し、生きた唯一神への信仰のみを説くイスラエル・アラブの宗教の立場からは、仏像を拝することを偶像崇拝(アイドラトリー、アイコノラトリー)として難ずる向きもあるが、偶像崇拝は原始的な呪物崇拝(フェティシズム)から派生したその変形としての信仰形態であるから、これと同日に論ずることは妥当ではない。

けだし仏像は芸術的表現の技術が高度に発達した段階で、形を超えた精神性の表現法として案出されたもので、広大な仏の徳やその功能(はたらき)を指し示す表象であり、また象徴化すること自体に、具体的な物体そのものを否定する意味を含んでいるのであるから、偶像崇拝の対象とは、似て非なるものといわわざるを得ない。

例えば丹霞焼仏(たんかしょうぶつ)の話はその間の消息を伝えるものであり、麻三斤(まさんぎん)は形あるものとしての仏に妄執する謬見を一擲(てき)し放下せしめることを教えている。

禅宗の起源に関しては、出典に疑義はあるものの霊山会上における心印単伝の事が伝えられている。ここでは禅の始源が釈尊に求められているところから、西天二十八祖説を前提としていることは疑いない。本邦での偽作の説も存するが、それは兎も角、注目すべきは正法眼蔵涅槃妙心実相無相の法門が、金波羅華(こんぱらげ黄金の波羅奢=ウトバラの花・に象徴され、暗黙裏に提起されていることである。

常に変らぬ輝きを放つ黄金は、なべて尊貴なるもの、天啓と完徳の象徴とされ、花は受動的原理のシンボルであり、霊的状態への到達を暗示する。

さらに開花は中心への還元、統一状態への回帰であり、内面的昇華の結果を表示する。迦葉(かしょう)の微笑は大事了畢(りょうひつ)の単的を伝えて余蘊(ようん)がない。誠に心憎い演出である。

思うに詩的・象徴的表詮は法の肯定的側面を表わし、言語道断心行所滅(ごんごどうだんしんぎょうしょめつ)はその否定的表現である。宗教上の象徴はそれに関わる者の特殊な意識下において、優れて現実的であり、聖なるものの現前を指示する功用をもつ。その点で一般の象徴や記号と区別される。象徴化は創造であるが反面否定を含む。

『正法眼蔵』「仏経」の巻に、先師如浄の語として「不用・焼香・礼拝・念仏・修懺・看経」と見えている。焼香礼拝等は、いわば行としての象徴主義である。
 古来禅では象徴的手法が接化に自在に用いられているが、それはあくまでも仮設(けせつ)であって、究極的には否定し去らるべきものである、という事であろう。

(教養部教授)

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