愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅のこぼれ話  平成11年度

曹洞禅の宗風(著・吉田道興)

中国禅において曹洞宗の宗風・家風として多数ある批評の中で広く知られている語句は、「家風細密、言行相応」です。これを集約し「曹洞綿密」とも称されます。

日本禅では、道元禅師の説示する「只管打坐」の語が有名です。また付随的に坐禅の内実を「証上の修」とか「修証一如」などといわれます。

本稿では、「曹洞綿密」と「只管打坐」の語を中心にあれこれ愚考し、日頃の見解の一端を披瀝してみたいと思います。

まず「細密」とか「綿密」という動作の主格は「行持」です。「行持」は、一般仏教で「行事」と表記し、恒例ないし臨時の法要儀式や作法、また広い意味の修行や威儀を指します。宗門では右と同種の用法のほかに、その修行の継続・護持の意味が重く加わっています。

つまり修行の初めや終わりの区切りもなく永続的に行うこと、たとえ悟っても怠けず真摯に続けていくことが要請されているのです。

綿密な修行をした代表的な人物として、すぐ想起できる方は、釈尊の子ラーフラ(羅喉羅)です。彼は少年期に半ば強制的にサーリプッタ(舎利弗)について出家させられ沙弥(見習いの小憎)になりました。

教団では、当時の社会制度(カースト)と相違し、「人はその生まれによって聖者となるのではなく、その行為によって聖者となるのである」と教えられていました。釈尊の子であるからといって周囲から特別視されることはなかったのです。父である釈尊も親子の情にほだされ彼を甘やかすことは決してありませんでした。そのことを次第に知り己の能力を自覚した彼は、自分の進むべき道として戒律を厳守し修行に打ち込むことに専念したのです。その結果、後に十大弟子の一人に数えられ、「密行第一」と讃えられました。「密行」とは、綿密な修行の意味です。

「威儀即仏法、作法是宗旨」という語も、「行持綿密」から自然に派生した宗門の標識です。道元禅師は、『正法眼蔵』行仏威儀の巻をはじめ『典座教訓』『示庫院文』等に、その内容を具体的に説き示されています。

要するにあらゆる役職や修行の一つひとつをおろそかにせず誠心誠意、心を込めてなすこと、そこに「行仏」が現れるとされるのです。すなわち、右に述べてきた心で修行に打ち込むならば、その「行」そのものが「仏行」であり、「行」の主体者が「行仏」といえるとする訳です。

次に「只管打坐」(「祇管打坐」とも)は、道元禅師が入宋し、正師となる如浄禅師と出会い、問答によって、「大事了畢」し「身心脱落」(大悟)を得た機縁(『宝慶記』)に由来するものとされ、帰朝後、たびたび示されています。語句の意昧は、「ひたすら坐禅に打ち込む」こと、「ただ坐す」ことです。

道元禅師があらゆる修行は「打坐」に凝縮されると高らかに宣揚したものに、次のような『弁道話』の文があります。「宗門の正伝にいはく、この単伝正直の仏法は、最上のなかに最上なり。参見知識のはじめより焼香・礼拝・念仏・修懺・看経をもちゐず、ただし打坐して身心脱落することをえよ」と。

「只管打坐」の実践には、世俗的な損得などの計らいの入る余地はなく、さらに「証悟(さとり)すら望みません。〔この「無所得、無所悟」は、大乗仏教の精神「空」そのものです。〕その上に、道元禅師は、万事を放下して一向に坐禅をなす時、周辺の全てが 「仏印」(ほとけの様相を表し)となり、「開演」(ほとけの教えを説く)を呈し大菩提を受用するとされるのです。このように述べてきますと、この「行」には、大いなる「信」・深い信仰が伴うことに気がつきます。

凡夫の我々は、修行と証悟(修と証)を別物と考えています。道元禅師は、そのような見解を「外道の見」として斥けられます。「修証は一等」であり「証上の修」であるから「初心の弁道が本証の全体」であり、「すでに修の証になれば証にきはなく、証の修なれば修にはじめなし」と説かれるのです。また修を離れぬ証を汚さないために「仏祖しきりに修行のゆるくすべからざるとをしふ」と示される訳です。

吾人の課題は、上記の説示を全面的に正しく受け止め実践することにあります。

ところで宗門では、修行は坐禅に限らず、あらゆる行為に広げて説かれることが多いようです。「何事にもー生懸命になせ」「掃除や炊事も坐禅と同じ」等。それはそれなりに一理あり意味のあることですが、戦時中のように時勢に流され軍部に協力し、敵方に対してとはいえ、殺人すら肯定するような極端な言動があったことを素直に認め、懺悔する必要があります。

真の「仏行」とは何か。自分のなすべきことは何か、何ができるか、いつどのようになすか等を客観的に判断し、冷静に行動すべきでしょう。それは正伝の仏法を継承する道元禅師の教示に依って正邪や善悪を見抜き、時代に迎合するのではなく、むしろ時代をリードする豊かな感性を保持する「綿密な心」も養う必要があると思われます。

(教養部教授)

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