我々が惑・業・苦から解脱して、真実の自己を明らかにしてしていくために、釈尊以来、様々な修行法が案出された。主要な修行法を挙げるならば次のごときものがある。
- 「四禅」は、初禅・二禅・三禅・四禅で欲界の迷いを超えて色界に生じる禅定をいう。
- 「四無量心」は、慈・悲・喜・捨の心を起こし、大梵天に生まれる禅定をいう。
- 「四無色定」は、空無辺処定・識無辺処定・無所有処定・非想非非想処定で、無色界に生じる禅定をいう。
- 「六妙門」は、数息・随息・止・観・還・浄を修することによって涅槃を得る三乗人の禅定をいう。
- 「十六特勝」は、呼吸を数えて心の散乱を除く数息観で、念息短・念息長・念身遍身・除身行・覚喜・覚楽・覚心行・除心行・覚心・令心喜・令心摂・令心解脱・無常行・断行・離行・滅行の禅定をいう。
- 「九想」は、肉体に対する執著・情念を除くため、人体死屍の醜悪な相状に想いをこらして迷想を断つための不浄観で、青癖想(しょうおそう)・膿爛想(のうらんそう)・蟲かん想(ちゅうかんそう)ほう脹想(ほうちょうそう)・血塗想・(けつずそう)・壊爛想(えらんそう)・焼想(しょうそう)・骨想(こつそう)の禅定をいう。
- 「八念」は、念仏・念法・念僧・念戒・念捨・念天・念出入息・念死の八種に心を込めて想いをかける禅定をいう。
- 「十想」は、無常・苦・無我・食不浄・世間不可楽・死・不浄・断・離欲・尽想の十種を観想する禅定をいう。
- 「八背捨」は、八種の禅定の力によって貪著の心を捨てる禅定で、初禅・二禅・四禅・四無色定・滅尽定をいう。
- 「八勝処」は、欲界の見る対象である色と形を観察してこれを克服し、貪心を除くための八種類の禅定をいう。
- 「十一切処」は、地・水・火・風・青・黄・赤・白・空・識が、あらゆる場所に遍ねく行き渡って隙間がないと観じる十種類の観想で、八背捨・八勝処を修めて、その次に修める禅定をいう。
- 「六神通」は、神足通(じんそくつう)・天眼通(てんげんつう)・天耳通(てんにつう)・他心通(たしんつう)・宿命通(しゅくみょうつう)・漏尽通(ろじんつう)で、仏・菩薩が具える無礙自在な不可思議な働きが、禅定を修することによって得られるという。
- 「九次第定」は、四禅・四無色定・滅尽定の九定を、異心を交えず次第を追って順次に修得する禅定をいう。
- 「三三昧」は、無漏を得るための禅定で、空三昧・無相三昧・無願三昧をいう。
これらの修行法は、具体的にどのように実修されたのかを、『大安般守意経(だいあんばつしゅいきょう)』によって究明していくことにしたい。『経』には「数息・相随・止・観・還・浄を念じて意を習せんと欲す。道に近きが故なり。この六事を離るれば、便ち世間に随うなり。数息は意を遮すとなし、相随は意を斂むるとなし、止は意を定むとなし、観は意を離るとなし、還は意をーつにすとなし、浄は守意となす。人が意を制することあたわざるをもっての故に六事を行ずるのみ」とあり、釈尊以来の修行法を、一「数息」・二「相随」・三「止」・四「観」・五「還」・六「浄」の六種類に体系化されている。具体的に究明していくことにしたい。
- 「数息」は、呼吸をーから十まで数えることによって、心が呼吸に向けられるので、六境の外界からの刺激を受けることがない。
- 「相随」は、長呼気呼吸によって六根より生ずる雑念・妄念を遮断し、心が呼吸と一つになって離れなくなる。
- 「止」は、数息によって意識を集中し、心を呼吸と相い随わせ、呼吸が入出する鼻の頭や丹田に繁け、心を呼吸にのみ傾ける。それによって、六境の外界の種々の刺激や、六根の感覚器官の内界のはたらきを制止する。
- 「観」は、出息・入息が正しく行われ、身心が調和するように観察し、観察した心と、その時の呼吸とに心を向ける。
- 「還」は、人間が本来もっている智慧によって自己や一切を観察する。
- 「浄」は、念を断つことであり、念の存在する場所はなく、一切が現象そのものの在り方をしていることを観想することである。
以上の六種の修行法が基本となって、 「四禅」「四無量心」「四無色定」「六妙門」「十六特勝」「九想」「八念」「十想」「八背捨」「八勝処」「十一切処」「六神通」「九次第定」「三三昧」などの禅定が実修されたのである。
仏教の修行において、特に重視されたのが数息観である。数息観を実修する際、心を具体的にどこに置いたのかといえば、臍下三寸(九センチ)の「丹田」である。すなわち、禅定という修行は、己心を丹田に移すためのものである。心を丹田に移すことによってのみ、智慧が開発されるのである。
道元禅師は、『普勧坐禅儀』に、「諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪を思わず、是非を管すること莫れ。心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて、作仏を図ること莫れ。」と、説かれている。これのみで心意識の運転を止めることができるとは、到底考えられない。道元禅師の只管打坐の坐禅には、上述の『大安般守意経』で説かれる数息・相随・止・観・還・浄の実修が前提としてあり、心を丹田に置かない限り、「心意識の運転を停め」ることはできないと考えられるが、如何であろうか。坐禅の仕方を具体的に体系化しなければ、坐禅自体が無意味となる。
(文学部教授)