三昧(サマーディ)とは、ある対象に心の働きを集中して無念無想になることだといわれます。念とは心に思うこと、想とは目の前に対象を見たときの観念です。しかし、無念無想といっても、この場合は、見ているという自意識はないけれども、心はある種の働きをしていると思われます。そうでなければ、三昧から智が生まれてはきません。おそらくは、三昧に入った時には、心は対象に「魅入られて」おり、対象に見られているのでしょう。
三昧の内容は学派、時代さらには地域によって異なりますが、ヨーガと密接な関係にあります。「ヨーガ」もまた長い歴史を有し、時代や学派によってその行法や思想も違うのですが、三昧はヨーガのもっとも本質的な部分であるといえます。
ヨーガ学派の根本経典『ヨーガ・スートラ』(2〜4世紀編纂)には、八階梯のヨーガが述べられています。八階梯とは、禁戒(不殺生、正直など)勧戒(心身を清め、満足を知り、苦行を行ない、経典を読誦することなど)、坐法、調息、制感、凝念、静慮および三昧です。
『ヨーガ・スートラ』(3・1)によれば、「凝念とは、心を[特定の]場に結びつけること」です。第五の階梯制感において対象から引き離された心は、精神集中のための対象を選びます。ある対象に結びつけることにより心を不動にするのです。
次の静慮とは「そこ( 選ばれた対象)において想念がひとすじに伸びること」(3・2)です。静慮では行者の心が対象を照らしていたのですが、第八の三昧では、「心が対象そのもの」となります。三昧とは「それ(静慮)が対象のみとなってあらわれ、自体が空になったかのような状態」(3・3)です。
心は対象のすべてを自らの中に満たした結果、心自体は「空になった」かのような状態にあるといわれます。水晶に花の赤さが移って水晶全体が赤くなるように、心は「対象となってあらわれ」、それ自体にはもはや透明な部分は残っていないのです。三昧では「見ている」という意識はかすかながら、まだ存すると思われます。三昧では行者の心に意識した対象が存するという意味で「有種子三昧」といわれます。行者は有種子三昧を得た後で対象に対する意識をもたない「無種子三昧」に進みます。
第八の階梯を幾度も習修した者には真智( プラジュニャー)が輝きます。この真智も対象を有するのですが、「その対象は特殊な個(ヴィシェーシャ)であり、言葉や推理の対象とは異なっている」(1・49)。第六から第八までの階梯では、行者の心の中にはまだ言葉がありました。第八の階梯では、行者は対象を日常世界におけるようには見ていないのですが、それでも言葉あるいは概念と結びついたイメージがありました。
しかし、いまや言葉と結びつかない直観智が生じます。この智は、言葉によって「これである」と捉えられない個を対象とします。したがって、この智は言葉ともイメージとも結びつかず、瞬間的です。最後の三階梯におけるそれまでとは異なった「新しい」イメージの世界は、この段階において反転され、イメージも言葉をも超えた世界に入っていくのです。
この智から生ずる行(残存印象慣性)は他の行が生ずることを妨げます(1・50)。この段階に至れば新しい業や煩悩が再び生ずることはありません。業(行為)が生ずるには、業の残存エネルギー(行)が必要だからです。真智から生じた行は、また真智を生みます。『ヨーガ・スートラ』第一章の最後(51)は「それ( 真智) をも止滅させたとき、すべて[の心作用]が止滅するゆえに、無種子三昧が生ずる」とあります。
これまでしばしば無種子三昧では、心が対象を捉えておらず、対象の形相もないのだと思われてきましたが、もしかするとこの段階でも対象を見ているという意識はないけれども、心は対象を見ているのかもしれません。つまり、対象のみとなっているのであって、心に対象のかたちはあるかもしれません。
チベット仏教のゲルク派の開祖ツォンカパは眼前に文殊菩薩を見たと伝えられます。チベット語では、このことを「シェルシクパ」つまり「文殊菩薩がご自身のお顔を(シェル)[ツォンカパという場において]ご覧になった(シクパ)」といいます。つまり、わたしが花を見るのではなくて、花が花を見ている、としかいえないような状況があります。花は新しい「花」として生まれかわります。
このような知のありかたは、瞬間的なものです。もしもそれが長時間続くような場合には人間の心臓や肺は耐えられないでしょう。しかし、瞬間的にせよそのような体験を有することは、その人のそれ以後の生を根本的に変えるものであることをわたしたちは多くの先達の体験から知っています
(文学部教授)