日本に最初に禅法を伝えたとされるのは道昭(629―700)である。彼は653年に入唐し、玄奘から法相、唯識教学を学び、慧満からは禅要を学んだという。そして660年に帰国し、飛鳥の法興寺(現在の元興寺)に入り禅院を建てた。道昭に関する記事は、『続日本紀』巻一、文武四年(700)3月10日条の道昭卒伝が詳しい。そこには次のようにある。
また玄奘がいうことには、「経論は深く微妙であり、窮めることはできない。禅を学んで東土に伝えるに勝ることはない。」道昭和尚は教えを奉じて禅定を習い、悟るところがとても多かった。……元興寺の東南の隅に別に禅院を建てて住した。時に天下の仏業に身を置く者たちは和尚から禅を学んだのである。……十有余年が立ち、勅があり、再び禅院に止住した。坐禅することは昔のままで、三日間に一度立ち上がるかあるいは七日間に一度立ち上がるかであった。……世に伝えるところでは、和尚の弟子達が天皇に奏聞し、禅院を新京に移し建てた。今の平城京の右京の禅院がこれである。……道昭は師の玄奘から禅を学んで日本に伝えるよう言われ、そのようにしたという。とすれば、七世紀の半ば過ぎに、日本に本格的な瞑想修行法が紹介されたと言って良いのだろう。道昭の伝記の中に明瞭に禅院との名称が登場し、後には平城京右京の禅院、おそらく今の元興寺であろうが、そこに禅法が伝わったというのである。
このように道昭によって禅観が伝えられたというのは、中世の時代の興福寺においても伝承されていた。たとえば法相宗の中興者として名高い解脱房貞慶の『心要鈔』三学門には「禅観の道は誠に我が宗に盛んである」と記されている。また貞慶は瞑想の際に「観影唯是心……」という慈尊教授の偈を念仏のように用いたという。
ところで、その道昭によって紹介された禅法とは具体的にはどのようなものであったのだろうか。実は資料からはほとんど知ることができないのであるが、八世紀の初頭の官符の中に興味深い一節が見え、古代における瞑想の受容の一端がかいま見える。
それは、『続日本紀』養老2年(718)10月10日、僧綱への布告であり、「法門の師範に足る僧侶を顕彰しなさい」と命じたものである。そこに、次のような文章がある。およそ僧侶たちを浮遊させてはいけない。(僧侶は)さまざまな教理を講論しさまざまな義理を学習するか、あるいは経文を暗誦し禅行を修め、それぞれに分業せしめ、皆、その道を得るのである。(以下、略)ここには、講論や諸義を学習するあり方と、経文を暗誦し禅行を修道するあり方とが対比的に表現されている。そして興味深いことには「経文の暗誦」や「禅行の修道」が同じ範疇のことと捉えられているのである。それは、どちらも心の働きを一つのものに結びつける役割があるからだろう。それは正しく心一境性であり、三昧に他ならない。また、その布告文の最後の記述にも注意を惹かれる。その住居は精舎ではなく、行は錬行に背いており、意の赴くままに山に入って、どうかするとすぐに庵や洞窟を造るのは、山河の清らかさにくもって混じり、煙霧の彩りに乱り染まるものである。ここには、仏教者たちが山に籠もり、庵や洞窟を造っていると述べられるが、それが批判的に捉えられている。これは当時の僧侶たちが、ともすれば山に入り何かしらの行を行っていたことを逆に物語るであろう。おそらく山に対する信仰が先にあり、それと結びついて仏教が理解されていたことを彷彿とさせるのである。
考えてみれば、奈良の周辺の地には聖なる山が多い。葛城山や金剛山、大峰山、金峰山、南に下がれば吉野そして高野、そしてその先には熊野が存在する。この三つは「よしの」「たかの」「くまの」と共通した呼び方をされたともいう。
葛城山は修験の祖とされる役えんのおずぬ小角の修行した地であり、彼は山中で不思議な力を身につけた。その験力のゆえに699年には伊豆に流され、701年には赦免されたと伝えるが、山に入り不思議な力を身につける伝統が既にあったのだろう。
しかし、なんといっても、古代の人々にとって身近なものは奈良の三輪山であった。三輪山の麓には大和の国を代表する三輪神社が存在する。三輪山はご神体そのものであり、古代から人々の信仰を集めてきた。その山に入ることは山の精気を受けとめ、聖なる何かの中に身を置くことであった。
古代の仏教者たちは、おそらく瞑想のために山の中に入ったのであろうが、そこは古代からの神祇の信仰が存在した地であった。古来、仏教は、日本に存在した神祇の信仰と最初から交渉し合いながら、受けとめられていったのではあるまいか。私たちは、仏教が日本の信仰と交渉し合いながら展開してきたことを、修行道の面からも、もう一度受けとめ直す必要があるように思う。
(文学部教授)