愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅のこぼれ話  平成24年度

「禅教育」の一(ひとつ)『十牛図』随想(著・吉田道興)

 最近、学生の授業を通し、彼らの中に「無気力」ないし「自信喪失」に陥っているように思われる層が散見できる。彼らのまなざしには精気がほとんどない。一面的に言えば、おそらく彼らはじっくりと「自分」をみつめ、真剣に「どうあるべきか。どうしなければならないのか」という取り組みをせず、ただ通学しているだけなのかもしれない。勿論、しっかりと4年間の設計を立て、着実に歩んでいる学生も大勢いる。

 仏教や禅の教育指導書として普及している『十牛図』(南宋代、臨済僧廓庵師遠撰)がある。この主題は「己事究明」(おのれ自身を見極める)にある。これを素材に若干の感想を述べてみたい。

 当該書は十枚の円相で構成され、心境が次第に進み、人間的に成長していく過程を示す。この絵図には、牧童(牧牛者)と牛が登場する。牧童は、学生(修行者)を表わし、牛はその牧童に内在する仏心(霊性的自己・本来の自己、真実・さとり)に譬えられる。絵図の前半では、わかりやすく仮に牧童と牛に分け、描かれている。

 さて、その第一「尋牛」には、それまでおのれ自身に無頓着であったものがようやくおのれ探しの第一歩を踏みだした姿を示し、同時におのれを根源的に知る大切さを表わす。そのおのれは、欲望の塊という反省が生ずる。その心情は一神教の「原罪」や仏教の浄土信仰に根差す「罪業」意識に近く、一度だけではなく、いつどこでも何事に対しても謙虚な心を持ち、常におのれ自身をごまかさず真正面から向きあう大切さを思いしる。

 第二「見跡」は、牛の足跡を見つけたところ。その足跡は、真理を知る手がかりになる諸種の文献知識や指導者の教えを指す。それらを基に精進することを要請している。

 第三「見牛」は、牛の頭部のみ、つまり本質的な真理の一端を垣間見た程度の知的認識を得た段階。それ以後の膨大な文献と長時間にわたる修行が示唆されている。修行や学問には、これで終わりという限界がない。

 第四「得牛」は、「真理」の大筋を実感的に体得した「小悟」の状態。しかし、まだ欲望を完全に制御できず、微妙な工夫や注意がさらに必要な段階。

 第五「牧牛」は、その真理を自己薬籠中(自由自在に活用)にしつつあるものの、まだ手綱を離すことができず真理との一体感や確信にやや欠ける段階。

 第六「騎牛帰家」になって、やっと真理とおのれとの一体感が確信に変わり、満足感(法悦)に浸り、牛の背で悠々と笛を吹く余裕もできている。

 第七「忘牛存人」は、真理に対する執着はもちろん、他の欲望に関わる微小な意識すら離れ、純粋なおのれが存在している状態。

 第八「人牛倶忘」の段階では、そのおのれも牛(さとりの意識)すらない「空」「無」の状態を空白で表わす。禅ではさとりの充実をよく「円月」に譬える。それをここでは、そのさとりの意識すらない高い境地(大悟)に立脚していることを示す。道元禅師の『正法眼蔵』「都機(つき)巻」には、この宇宙に隠すことなくあらわれている真実を「月」に託して縦横に説示されている。

 第九「返本還源」は、視野を大自然・宇宙に広げ、それを現前の「山水草木」で描写し、文字通り根源に還る姿を示す。大自然は、時に災害をもたらすこともあるが、時に恵みも与えてくれる。そのどちらも「真実」であり、嘘偽りがない。それを丸ごと受容するのが我々人間です。

 第十「入廛垂手」には、布袋(ほてい)(唐末の禅僧、契此。弥勒菩薩の化身)らしき人物が、袋を背負い杖を持ち市街に出てきた姿が描かれている。彼は托鉢をしつつ老若男女を問わず誰にも優しく接し慈悲の行(ほどこし)をなし、大乗仏教の利他行の実践者と伝えられ尊敬された。

 つまり、この「十牛図」は、「おのれ探しの旅・人生のあり方」を示すモデルです。

 これは、また本学の教育が目指す「一人ひとりの自己形成」「自分の可能性に挑戦」することにも通じると思います。すなわち第一は目的意識をしっかりもって出発し、第二・第三・第四では諸種の苦労を重ね勉学し広い知識を身に着け、第五・第六ではさらにおのれを客観的に認識して自信を深め、精進を怠らず余裕を持ち日常生活を過ごし、第七にはゆるぎない自己が確立され無意識に生活する中でも過失がない状態、第八では迷悟や聖凡等の二元対立を超え絶対的「空・無」に遊戯(ゆげ)し、第九では自己が大自然に融合同化した世界に悠々自適し、最後の第十には「菩薩」として全面的に社会奉仕・福祉生活に徹する理想的人生が示される。

 私たち人間は、このような人生をぜひ送りたいものです。

(教養部教授)

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