国会図書館憲政資料室所蔵の井上馨文書には、近代仏教を知る上で重要な資料がふくまれている。明治25年8月伊藤博文内閣が発足し、井上は内務大臣に就任した。明治27年に日清戦争が起こると、10月に内務大臣を辞して特命全権公使として渡韓した。その間、内務大臣として井上は、内務省所轄の対象であった仏教教団に関わった。曹洞宗分離の問題(明治14年の永平寺住職の選挙をきっかけに永平寺と總持寺の対立が深刻化し、ついに總持寺が分離を宣言した事件)は、その一つであった。真宗大谷派の財務事件は、長期にわたって井上が取り組んだ問題であって、膨大な関係資料が井上馨文書に収められている。おそらく井上は、政治家として巨大な仏教教団内の内紛を放置しておくと、社会問題化し、世情に不安をもたらすと懸念していたと思われる。ところが大日本国憲法が制定され、信教の自由の条項が出来ていたから、衆議院において内務大臣の井上が曹洞宗分離の問題に立ち入ったことは、信教の自由を侵犯するのではないかという疑義が質問で出される始末であった。明治27年3月ころに井上が、永平寺と總持寺との両方に接触して仲介しようとしたが、成功しなかった。ある時に官邸に両派の多くの僧侶を招き折衝をした後に、井上は食事をふるまった。井上は周到に、警察を使って各僧侶が、肉食妻帯か清僧かを調べ上げて、肉食の僧侶には、刺身、鳥肉の膳部を、清僧には、精進の膳部を出したのである。この膳を見た僧侶たちは、箸をつけずに顔を見合わせた。僧侶の間では、「人を馬鹿にしている。我々を侮辱するものである。けしからぬ」という気分がたちまちみなぎってきたという(三浦梧楼(ごろう)『観樹将軍回顧録』)。敵も味方も席をたち、以後、井上の仲介を拒否した。井上は、同じ長州出身の軍人であった三浦梧楼にこの問題の解決を任せて、明治27年10月に渡韓した。内務大臣ですら解決できなかった難題にもかかわらず、三浦は解決に乗り出した。12月20日ころに三浦は、新しい内務大臣の野村靖からこの問題の解決を託される。12月30日に三浦は、總持寺住職の畔上楳仙(あぜがみばいせん)、永平寺住職の森田悟由(ごゆう)を訪ねて、2人に懺悔文(さんげもん)を書かせ、31日には2人を呼んで会合をもち、和談は成立する。長い間混迷をふかめていた両本山の問題が、三浦が出ていって「急転直下」解決したというのである(『宗門秘史曹洞宗政末派運動史』)。
しかし本当であろうか。井上馨文書を見ると、12月17日付けで森田悟由の懺悔文と住職辞退の届が、さらに畔上楳仙の懺悔文が、曹洞宗事務取扱に提出された。12月19日付けで、曹洞宗事務取扱の2名が、非常法規の認可を内務大臣に申請した。非常事態の場合には、宗制とは別に非常法規が適用されるという内容であった。森田、畔上がおのおの本山住職の辞職を申し出たことを踏まえて、曹洞宗事務取扱は、さっそく非常法規を適用して、自らの判断で森田、畔上を永平寺住職、總持寺住職に復帰させるように内務大臣に推薦する。それによって12月31日に森田、畔上は本山住職に復帰し、森田は、一年間の管長になった。井上馨文書で見ていくと、12月17日には和談までの段取りが、内務大臣、曹洞宗事務取扱、森田、畔上の間で、すでに出来上がっていたと考えざるをえない。三浦が12月30日、31日の2日で大活躍したことは、その通りであろうが、その時点では和談のお膳立てはできあがっていた。だからそれほど「急転直下」ではなかったのである。では、本当の仲介者は誰か。私は、資料のなかに出てくる「各宗委員」がそうではないかと考えている。明治25年3月に畔上が、總持寺分離を宣言してから両派の対立は激化したが、臨済宗七派が、仲介に入ってくる。この仲介はうまく行かなかったようであるが、明治27年3月の森田の口上書を見ると、「各宗委員」が和解案を出している。「各宗委員」はできるだけ早くに互いが譲歩して、解決を見るべきだという意見を出した。「各宗委員」は、みな自分の宗派でも似たり寄ったりの内紛を抱えて、各宗派の事情について知悉していた。内務省は、「各宗委員」の僧侶に依頼して水面下で解決策をさぐったのではないか。そして最後の最後には、永平寺からも總持寺からも信頼される大物の軍人で、かつ居士仏教徒であった三浦が登場した。三浦は、明治仏教界の傑僧であった釈雲照に帰依して、通いつめた時期があった。釈雲照を通じて戒律主義、出家主義の仏教にあこがれた三浦には、禅僧特有の言動と表現を理解する懐のふかさがあった。少なくとも曹洞宗の禅僧たちは、内務大臣の井上を信用しなかったが、居士仏教徒の三浦を自分たちの理解者として一目置いていた。
明治20年代は、どの仏教教団にとっても内紛と対立が起こった混迷の時代であった。近世以来の本末制度と近代の管長制という異質な原理が亀裂を生み、にもかかわらず何とか摺りあわせ調整して、近代的な組織を生み出さねばならない試行錯誤の時代であった。仏教教団の近代化の過程のなかで、居士仏教徒が活躍する余地はかなりあったのである。
(文学部教授)