大学の教員になって20年近くになる。最近感じるのだが、近頃の学生は甘やかされて育っているせいか、非常に依存心が強いように思う。また、なるべく努力をせず楽をして学生生活を送ろうとしている者も多くみられる。例えば、レポートの課題を与えると、インターネットの情報だけで作成して来たりするし、試験の出来が悪くても、恃(たの)めば単位を認定してくれるだろうと高を括っている者もいる。勿論すべての学生がそうではないが、そういった学生が増えているのは確かであろう。これには我々教員の側にも責任の一端があると思う。それは、あまりにも学生のケアをし過ぎることだ。それでは自立心は身に付かないし、社会に出てから困ることも多いはずだ。それでは、どのような教育をしたらいいのだろうか。叢林(そうりん)(禅の修行道場)における指導法が、一つのモデルになるように思う。そこで中国の禅宗における語録や燈史の中に見られる修行風景をヒントに考えてみたい。
禅の指導法として有名な言葉に、「臨済の喝、徳山の棒」というものがある。これは、唐代の禅匠である臨済義玄(? −866)と徳山宣鑑(780−865)の指導法の特徴を示すもので、禅の修行の厳しさを表わす言葉としても用いられる。禅では師と弟子の関係が非常に密接である。弟子は師の下で寝食をともにしながらさとり≠目指して修行に励む。師は弟子をさとり≠ノ導こうと、さまざまな手だてで指導をする。そんな中で臨済は弟子に喝声を浴びせ、徳山は棒でぶっ叩いたというのである。しかしそれは決して弟子を突き放す行為ではなく、弟子たちの覚悟を促す大慈大悲の表れである。
さとり≠ニいうものは、決して他人から教えてもらうものではなく、自らが菩提心を発し身心を傾けて修行して、その結果として体得していくものである。当然ながらそこにはそれなりの覚悟が必要である。雪峰義存(822−908)はある上堂で弟子たちにこう諭している。
便(すなわち)与摩(よも)に承当却(じょうとうきゃく)すれば、最も省要あるに好(よ)し。更に這(こ)の老師の口裏(くり)に到り来たらしむること莫(なか)れ。三世諸仏は唱うる能(あた)わず、十二分教は戴不起(たいふき)、如今の涕唾(ていだ)を嚼(か)む漢(かん)、争(いか)でか会(え)するを得ん。我は尋常(つね)に、師僧に向かって道(い)う、是れ什摩(なん)ぞ、と。便ち近前し来たりて答話の処を覓(もと)む。驢年(ろねん)にも識(し)り得んや。(中略)菩提達摩(ぼだいだるま)来たりて道う、〈我は心を以て心に伝えて文字を立てず〉と。且(しば)らく作摩生(そもさん)か是れ汝諸人の心なる。只(た)だ是れ乱統(らんとう)にし了って便ち休し去る可からず。自己の事若し明(あきら)めざれば、且らく何処(いずこ)より如許多(そこばく)の妄想を出で得ん。這裏(しゃり)に向かって凡を見、聖を見、男女僧俗、高低勝劣有るを見て、大地面上の炒炒(しょうしょう)底の鋪砂(ほさ)に相い似て、未だ嘗(か)つて一念も暫く神光を返さず、生死に流浪し、劫(ごう)尽きても息(や)まず。慚愧(ざんき)、大いに須(すべか)らく努力すべくんば好し。(『祖堂集』雪峰章)
ここで雪峰は、自身の言葉や過去の祖師が遺した言葉の意味を追求するのはやめよと強調している。当時の修行僧たちは、語録や燈史に記された祖師の言葉を手掛かりに仏法を学ぼうとする傾向が強かった。雪峯はこのことを日ごろから苦々しく思っていた。ただ知識として祖師の言葉を蓄積することが、悟りを獲得することにはならないとしたのである。そして、究明するのは言葉の意味ではなく、「自己の事の究明」でなくてはならず、悟入(ごにゅう)することを弟子たちに強く求めたのである。
『祖堂集』洞山章には、洞山良价(807−869)の次のような問答がある。
問う、「師は南泉に見えたるに、什摩(なに)に因りてか雲巌の為に斎を設くる」。師曰く、「我は他の雲巌の道徳を重んぜず、亦(ま)た仏法の為ならず、只だ他の我が為に説破せざりしことを重んずるなり」。この問答は、ある僧が洞山に、どうして雲巌のために斎会(さいえ)を設けるのか、と訊ねたのに対し洞山が、ひたすらありがたいのは、師の雲巌曇晟(うんがんどんじょう)(782−841)が私に何も説いてくれなかったことだ、と述べたものである。
一般的には、手取り足取り懇切丁寧に指導してくれるのを親切だと思うが、洞山は雲巌が完全に教え切らないでおいてくれたのが本当の親切だといっているのだ。教育の場においては、実にこれが重要な要素である。洞山にとって、先師による未完の教示こそが覚悟を抱き続けることになり、その結果自身が大成できたと感じ、雲巌に感謝しているのである。思えば、初めから正解が示されるのは、親切に似て実は非なるもの。正解にいたるまでの道筋や方法を示してくれるのが、本人の自覚や努力を促すことになり、かけがえのない生涯の財産となるのである。
そうであるから、我々も学生を指導するにあたって、学生本人が努力する余地を残しておかなければならない。その匙加減は難しいが、学生一人一人と正面から向き合って、その人その人に応じた指導ができるのが理想であろう。すべてを解き明かすことより、それは大変なことではあるが。(教養部准教授)