愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅のこぼれ話  平成27年度

『モチモチの木』と無情説法(著・木村文輝)

『モチモチの木』という絵本がある。斉藤隆介氏の短篇童話に、滝平二郎氏がきり絵による美しい挿絵を施した作品で、一九七一年に岩崎書店から刊行された。以来、今日に至るまで多くの子供達に読み継がれており、近年では小学校の国語の教科書にも採用されているようである。

私はこの作品を、小学校二年生の夏休みに、宿題の読書感想文を書くために初めて読んだ。その後も繰り返し読んでいたのだが、中学校に入学する頃、段ボール箱にしまいこみ、そのまま年を経てしまった。しかし、最近になって、しきりにその内容が気になりだした。そこで、数十年ぶりにこの箱を引きずり出して、絵本を読み直すことにした。

物語はこうである。五歳になる豆太はじさまと二人で峠の小屋に住んでいる。昼間は豆太が「モチモチの木」と名付けたトチの木に向かって「実イオトセェ」といばっているくせに、夜になるとその姿が恐ろしくて一人でションベンにも行けない。ところが、霜月三日の夜、じさまが腹痛で苦しみだした。豆太は麓の村まで駆け下りていき、医者さまとともに小屋に戻ってきた。その帰り道で、豆太はモチモチの木に灯がともっているのを見た。医者さまは、月と星に照らされた雪のために、「あかりが ついたように みえるんだべ」と言ったけれども、それは一年に一度の山の神さまのお祭で、勇気のある一人の子供しか見ることのできないものだった。

翌朝、元気になったじさまは、豆太の勇気をほめながらこんなことを言った。「にんげん、やさしささえあれば、やらなきゃならねえことは、きっと やるもんだ。」これが、この作品に込めたメッセージであると、作者はあとがきで述べている。しかし、私は長い間、この作品のメッセージを違う形で覚えていた。「豆太は余分なことを考えず、必死でやるべきことをやったから、山の神様のお祭りを見ることができたのだ」と。

最近、この本が気になりだしたのは、山の神様のお祭りを見た豆太の姿が、道元禅師の言う「大地と有情と同時成道」を果たした釈尊に重なるように思えてきたからである。

一般に、「成道」という語は「悟りを開くこと」だと理解されている。そのため、私はこの言葉に初めて触れて以来、釈尊が悟りを開く時に、なぜ大地とあらゆる生き物が同時に悟りを開いたのか、不思議に思っていた。それどころか、大地が「悟りを開く」とはどういうことなのか、まったく理解できなかった。

しかし、ようやく思いついたのが、「成道」という語を「悟りを開く」というだけの意味で捉えようとすることが間違っているということであった。「成道」とは、真理を悟るとともに、真理を体現すること。すなわち、「あるがまま」をあるがままに表し、「なすべきこと」をなすがままに行うこと。あらゆる欲望や執着、分別心から離れ、全身全霊で、いま、この時に集中することである。

人間を除くあらゆるものは、常にいかなる分別にもとらわれることなく、あるがままの姿を表している。ところが、それらのものを前にして、人間は美しいとか醜いとか、大きいとか小さいという勝手な判断を下してしまう。そのため、「あるがまま」を見ることができなくなってしまうのだ。

釈尊は、こうした一切の分別心から離れた時に、真実を見る、つまり「悟りを開く」ことができることを発見した。私達が「悟りを開く」時、世界は「あるがまま」の姿を開示してくれる。否、もともと「あるがまま」の姿を表していた世界の存在に、私達が初めて気づくだけである。つまり、「大地と有情と同時成道」と言いながら、実は「大地と有情」は初めから「成道」しているのであり、それに気づいていないのは、人間の側だけなのだ。

このように、大地と有情が常に「成道」し、人間がそれに気づくことをひたすら待ち続けていることを、別の表現で「無情説法」という。「無情」とは心を持たない存在、すなわち山川草木のことであり、それらが常に真理を説いているのである。人間はその説法を聞こうとすればするほど、その声を聞くことができない。むしろ、その説法を聞こうとする心から離れた時にこそ、世界はその真理を開示する。

香厳禅師が竹に小石が当たる音を聞いて大悟し、霊雲禅師が満開の桃花を見て悟道したのは、いずれも一切の分別心から離れていたからである。まさに、「仏道をならふというは」「自己をわするる」ことであり、それは「万法」、すなわち、あらゆるものに「証せらるる」ことなのである。

このように、真理は「自己をわするる」修行の中にこそ現れる。道元禅師はそれを「修証一等」と呼び、本学ではそれを「行学一体」と呼び換えている。また、森羅万象がその真理を常に開示しているからこそ、私達は「自己をわするる」時に、その真理に気づくことができる。それ故、私達は万物に対する「報恩感謝」を忘れるわけにはいかない。

『法華経』に述べられている龍女は八歳で悟りを得たというが、豆太は五歳で「無情説法」の姿を見た。余分なことを考えることなく、やるべきことに専念する。そんな豆太の姿に、私は「仏」の姿を重ねて見ていたのである。

(文学部教授)

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