愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅のこぼれ話  平成30年度

数学、ときどき宗教(著・久馬栄道)

私は僧籍のある身分ですが、本学では数学とコンピュータを教える、ちょっと変わった教員です。数学といっても、数学の成り立ちを哲学的に考察する分野を研究しているので、本学の文科系の学生諸君にも、ある程度なじみのある授業ができるのではないかと考えております。

さて大数学者のガウスは「数学は自然科学の女王」と言いました。たしかに数学は自然科学の一分野ですが、よく考えてみますと、少し奇妙なことに気がつきます。物理学は自然界の物理現象を観察して、その法則を研究します。化学は自然界の化学現象を、天文学は自然界の天文現象を観察して、その法則を研究します。数学は自然数や実数や平面や直線や円などを研究しますが、しかしよく考えてみると、それらは自然界に自然に存在するものではなく、自然界の現象を抽象化したものであり、この世のどこにも厳密には存在しません。この世のどこにも存在しないものを、全世界中の人が、さもあるが如く信じているのですから、考えようによっては、数学は世界最大の宗教と言えるのかもしれません。

いったい数学の本質は、どこにあるのでしょうか。古代ギリシャ人は、自然数とその比だけが理性的な数であると考えていました。一辺の長さが1の正方形の対角線の長さルート2が、自然数の比で表せないことは、古代ギリシャ人には、たいへんショッキングな出来事でした。19世紀の数学者クロネッカーは「自然数は神が作ったが、残りは人間が作った」と言いました。じっさい彼は、実数の論文には意味がないと考えていました。しかし彼のような考えは、だんだん主流ではなくなっていきまして、実数の本質についての研究が進みます。同じ時代の数学者デーデキントは、実数は自然数の比の無限集合で表せることを喝破しました。この時代から無限集合の重要性が認識され、カントールによって無限集合論が展開され、画期的な論文が次々と書かれました。

ことここに至って、集合こそが数学の主体的な存在であると考えられるようになりました。しかしカントールの集合論は、概念を実体化できるひじょうに強力なものでして、その強力さゆえにラッセルのパラドックスが生じる事態となりました。これを克服するために、20世紀になってから公理的集合論が考えられました。

この「公理的」という考え方は、20世紀の大数学者ヒルベルトの形式主義により、数学には実体となる存在がなく、すべての数学の存在は相対的であるとされました。これは私の考えによれば、仏教の空の思想にそっくりなのです。仏教の創設者の釈尊は紀元前5世紀の実在の人で、公理的方法の元祖は、紀元前3世紀のユークリッドの幾何学ですが、そのユークリッドはヒルベルトによって2000年以上かかって、数学が釈尊の考えに追いついてきた感じです。 このように、数学の所々にたまに顔を出す宗教性なのですが、その根源となるのは、数学がもつ「純粋」と「無限」です。数学以外の自然科学においては、前にも書いたように、実際の自然の現象が数学の純粋性を上回ることがしばしばあります。しかし数学においては、数学の純粋性のみを追求すれば良いので、そこに自然界と妥協する余地はありません。

無限の概念は、初めは自然数、つまり1の次は2で2の次は3のように、次々と連鎖で積み上がっていくような無限、「可能無限」が主流でした。クロネッカーが「自然数は神が作った」というのも、それを表しています。しかし数学の自由性は、それをはるかに超える「実無限」を要請し、20世紀になるとそれが集合論や論理学と合体して、ついに数学は自由の翼を得たのです。

さて現代の数学はラッセルの論理主義に飲み込まれたと言っても良い状況で、あまりにも巨大すぎて人力では正しいかどうかチェックできない証明は、厳密に記号論理学で書いてコンピュータでチェックします。数学はすべて記号論理学の上で厳密に展開されているのです。ラッセルの弟子のヴィトゲンシュタインは「哲学は記号論理学で語らなければならない」との趣旨のことを述べましたが、数学ではそれがすでに現実になっているわけです。

さてもっとも古い時代のお経である阿含経を読むと、じつに論理的に書かれている部分があります。インド人は、ギリシャ人とは別に論理学を発明した人々ですが、もちろん釈尊もそのようなインド的な伝統に浸かっていたであろうと推測されるので、さすが釈尊であると感心します。

宗教の歴史は、古代の呪術的な時代を経て、中世にはイスラム教もキリスト教も、アリストテレス的な哲学によって、理性による神学の再構築がされました。その後スコラ哲学は無限の概念で壁に突き当たりましたが、それらの解決にはカントールの無限集合論が有効なのではないかと考えられ、彼らは不遇であったカントールに援助を行っているのです。

このように将来的には数学や論理学がそれらの問題にお手伝いできる可能性があるのではないかと考えています。いつか記号論理学で書かれた宗教が現れるかもしれません。

(教養部准教授)

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