愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅のこぼれ話  令和元年度

「行持」を考える(著・伊藤秀憲)

本研究所紀要において、「『正法眼蔵聞書抄(しょうぼうげんぞうききがきしょう)』口語訳の試み―行持―」を3回にわたって発表してきました(第31・47・48号)。『正法眼蔵聞書抄』とは、道元禅師の著作である75巻本『正法眼蔵』の注釈書です。禅師の法を嗣いだ詮慧(せんね)が『聞書』を、その弟子経豪(きょうごう)が『抄』を著しました。訳し了えたのを機会に、行持の巻を中心に、道元禅師が説かれる「行持」について考えてみることにしたいと思います。(内容上、以前「禅語に親しむ」に書いた「行持道環」と、重複する部分もあります。)

行持の巻は次の文章ではじまります。

仏祖の大道、かならず無上の行持あり、道環して断絶せず。発心(ほっしん)・修行・菩提(ぼだい)・涅槃(ねはん)、しばらく間隙あらず、行持道環なり。

水野弥穂子氏は、行持の巻の冒頭の解説で(『原文対照現代語訳道元禅師全集』巻2)、

発心し、修行し、菩提を証し、涅槃に至ればそれで一安心するかと思うと、道環して(環の上をゆくように)断絶せず、「しばらくの間隙」もないと言う。すると、涅槃に至ると、「しばらくの間隙」もなく、発心が待ちかまえているということになる。

と述べられています。

一般に、発心から涅槃までを、一度発心し、長い修行の期間を経た後、菩提を得て涅槃に至るというように、発心以下を直線上に排列して考えています。しかし、水野氏は、涅槃に至ると、発心が待ちかまえているとされます。直線上の終わりにある涅槃と初めの発心が、少しの間隙もなく繋がって環になっていて、めぐりめぐっていると考えておられるようです。それゆえ、

(その行持は)道環して(めぐりめぐって)断絶しない。

と訳されるのでしょう。そのような理解でよいのでしょうか。詮慧の『聞書』(口語訳)では、

「道環して断絶せず」というのは、教行証(教えと修行とさとり)が一つである道理を道環というべきである。(中略)発心の時、修行の時[など]と分けないのを道環と言うべきである。絶え間なく続いているとは理解してはいけない。四種が同じで、間隙がないのである。

と説かれています。これによれば、発心・修行・菩提・涅槃が終わりなく、めぐりめぐっているのではなく、発心以下の四種が同じであるから間隙がないのであって、道環とは行持が終わることなく続いていることを示していると考えられます。ではなぜ4種は同じなのでしょうか。行持の巻では、

諸仏諸祖の行持によりて、われらが行持見成し、われらが大道通達するなり。われらが行持によりて、諸仏の行持見成し、諸仏の大道通達するなり。

というように、「諸仏」と「われら」とが入れ替えて書かれています。このことは、「諸仏の行持」と「われらが行持」とが同じであることを示しています。「われらが行持」、それは「諸仏の行持」と同じなのですから、我々がなす行持、それは諸仏の行持の現成に他ならないのであって、そこには諸仏の大道即ち仏道が、滞りなく行き渡っているのであります。

仏が行う修行は、さとる(菩提を得て涅槃に入る)ための修行ではありません。さとっているという上での修行ですから、修行と菩提・涅槃とは間隙がありません。また、修行を伴わない発心はありませんから、発心と修行との間にも間隙がないと言えます。このように、発心等の4つは間隙がなく同じですから、行持は発心の連続と言ってもよいし、修行の連続と言っても、また菩提・涅槃の連続と言ってもよいでしょう。それ故、毎日の我々の行持の他に、さとりがあるのではないのです。

ここで思い起こされるのが、永平寺三世義介の『御遺言記録』の記述です。

先師の弘通せし仏法は、今の叢林の作法・進退なり。正にこれ仏儀・仏法を聞くといえども、内心に私(ひそか)に存(おも)えり、この外に真実の仏法定(かなら)ずこれあるべしと。然るに近比(ちかごろ)この見を改めたり。今の叢林の作法・威儀等は、これ則ち真実の仏法なりと知るなり。(中略)今日の仏威儀は、挙手動足の外に、別に法性甚深(ほっしょうじんしん)の理あるべからず。この旨、真実に信を取りぬ。(原漢文)

義介は、道元禅師より今の叢林の作法・進退が、正に仏儀・仏法であることを聞いていましたが、この他に真実の仏法(法性甚深の理)があると思っていたようです。しかし、近頃、即ち禅師示寂後、その教えを振り返ってみて、その考えを改め、今の叢林の作法・威儀等(われらが行持)が、そのまま仏威儀(諸仏の行持)であり、真実の仏法であるという理解に至ったと記しています。

以上、述べてきましたように、道元禅におけるさとりは、我々の行持をおいて他にあるのではないのですから、行持は終わりのない行持であります。「行持道環」とは発心・修行・菩提・涅槃がめぐりめぐっているのではなく、行持に終わりのないことを「環」をもって表したのです。修行に終着点はなく、一生が修行であります。仏の教えに従って、行じる日常生活(仏道生活)の中に仏を現成していく、これが「行持」なのです。

(文学部客員教授)

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