愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅のこぼれ話  令和4年度

仏の言葉、柔の道(著・鷲嶽正道)

私は英語の教員として学生たちと英語の勉強をしていますが、柔道の指導員としての顔も持っています。柔道といえば、激しい技の攻防や「柔(じゅう)よく剛(ごう)を制す」といった言葉が思い浮かぶかもしれません。しかしながら、これらは柔道の本質的な考え方とは少し違います。また、いかなる道でも、その道を究めた人の言葉には相通ずるものがあります。本稿では、柔道の創始者である嘉納治五郎(かのうじごろう)師範の思想と柔道の理念をご紹介し、その思想・理念を岡島所長がご高著『思考禅のススメ』で紹介されている禅・仏教の言葉、そして本学の建学の精神と重ね合わせてみたいと思います。

講道館(こうどうかん)柔道は嘉納師範が永昌寺(えいしょうじ)という、現在は台東区にある浄土宗の寺院の本堂脇に12畳の道場を建てたのが発祥です。体育の授業や部活動で柔道を経験した方の中には、練習の開始・終了時に「神前(しんぜん)に礼(れい)」のかけ声で神棚(かみだな)に座礼(ざれい)をしたことを思い出される方もいらっしゃるかも知れません。道場に神棚があることを考えると、柔道の最初の道場が寺院の敷地にあったことに多少違和感を覚えます。実際、現在でも大学を含む多くの道場には神棚があります。しかしながら、柔道と神道(しんとう)のつながりは深いものではなく、戦前に文部大臣が道場に神棚を置くよう答申(とうしん)した名残だと考えられます。嘉納師範はこの答申に抵抗していたと聞いています。国際派だった嘉納師範は、柔道が特定の宗教とつながりを持つべきではないと考えていたようです。また、嘉納師範は宗教に依(よ)らない原理に基づいた道徳を求めていました。それが柔道の理念へとつながります。

さて、ご存じのとおり柔道では実際に試合が行われ、選手たちは畳の上でしのぎを削るわけですが、実は柔道の目標は勝負に勝つことや力や技を身につけることにはありません。嘉納師範は天神真楊流(てんじんしんようりゅう)柔術と起倒流(きとうりゅう)柔術という柔術の修行を通して、個々の技術の集合であった柔術の背景に原理を見いだしました。そして、柔道の技術には根本とするもの、すなわち「道」があるとして、自身の流派を講道館柔道としました。その道は 「精力善用(せいりょくぜんよう)・自他共栄(じたきょうえい)」という理念で表されています。「精力善用」とは自分の心身の力を最も効率よく使うことです。似た言葉に「柔よく剛を制す」がありますが、これは嘉納師範の言葉ではありません。また、一般的に理解されている「相手の力を利用して技を施す」という考え(柔の理)は、嘉納師範自身が限界を認め、修正しています。

嘉納師範は、精力善用の理念は柔道以外の社会的な物事にも応用できるとも考えていました。その考えが「自他共栄」、すなわち、その力を自分のためだけでなく、他人(社会)のためにも使うという理念につながります。この理念は柔道が礼に始まり礼に終わることによく現れています。目の前の相手は敵ではなく、自分が技や心身の力を身につけるのを手伝ってくれる大切な存在です。そして、練習や試合を通して自分だけでなく、相手も成長します。そこで、互いに高め合う相手に敬意を込めて礼をするのです。

したがいまして、自分の心身の力を最も効率よく使い、人格を完成させ世に尽くすことこそが柔道の目標なのです。柔道の修行はあくまでそのための過程となります。

こういった柔道の思想・理念は禅・仏教の言葉とどのように重なるでしょうか。

ひとつめに「我(われ)を生む者は父母、我を成(な)す者は朋友(ほうゆう)」を取り上げます。この言葉は柔道家の目には「自他共栄」そのものに映ります。自分の心身の力や技術の向上には必ず相手が必要です。切磋琢磨(せっさたくま)しあえる相手の存在は、いずれの「道」の完成にも欠かせないのです。

ふたつめに「それ通達(つうだつ) の人は、刀を用いて人を殺さず、刀を用いて人を生かす」を挙げます。岡島先生の解説には「剣術を磨くといっても、それは相手を切り殺す技術を磨くと言うのではありません。それは、自己鍛錬、心身を鍛えあげると言う事です」とあります。これはまさに「精力善用」と柔道の目標である人格の完成です。後半部の「刀を用いて人を生かす」は、心身の力を他人のためにも使う「自他共栄」と同じに理解できます。武術としての柔道について思索や研究を重ねていた嘉納師範が、広く武術家の言葉から影響を受けたことは想像に難くありませんが、修行の行き着く先が「人を生かす」ことであることには普遍性を感じます。

最後に、柔道の理念を本学の建学の精神である「行学一体(ぎょうがくいったい)・報恩感謝(ほうおんかんしゃ)」と重ねてみます。「行学一体」は身につけた知識や技術を実践して人間的完成を目指すと理解できます。これは自分の心身の力を最も効率よく使い、人格の完成を目指す「精力善用」と相当程度重なり合うように思えます。一方で「報恩感謝」は自らの未熟さに気づき、周囲へ感謝することと理解しています。感謝の気持ちが沸いてきたならば、一歩進んで周囲に尽くすこともできるのではないのでしょうか。

多少「力技」も使いましたが、柔道の理念と禅・仏教の言葉が交錯するところを探ってみました。本学の建学の精神に基づいた、禅を通した人間教育と合わせて、柔道を通した人間教育を少しでも実践できればと考えています。

(教養部教授)

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