

令和7年の暮れ、大掃除をしていると、禅研究所第4代所長、中祖一誠(なかそいっせい)先生のお嬢さまから、1年前にいただいた手紙が出てきました。手を休めてそのお手紙を読みながら、30年前の思い出に浸ることになりました。
中祖先生が所長に就任されたのは平成7年4月のことです。同年、私は現所長の河合泰弘先生とともに、「宗教学」の非常勤講師になりました。しかし、この年には禅研究所には関わっていません。翌年度、非常勤講師でありながら、昼休み等を禅研究所で過ごすとともに、火曜参禅会に参加するようになりました。
はじめて参加した参禅会の折、中祖先生が提唱の中で、『自由からの逃走』という本に言及されました。具体的な内容は覚えていないのですが、いきなり西欧の知見が紹介されたことに軽い驚きを抱きました。終了後、私が『神よりの逃走』の著者と混同して「マックス・ピカートですね」と申し上げると、微笑みながら「いやいや、エーリッヒ・フロムだよ」と答えられたのが、私の覚えている最初の中祖先生との会話でした。
その年の秋、やはり火曜参禅会の終了後、同年度末に創刊が予定されていた「禅研だより」の編集会議に同席することになりました。中祖先生に加えて、当時の幹事の川口高風先生と研究員の菅原諭貴先生のやり取りの中で、印象的だったのが活動記録欄のタイトルでした。川口先生が「没蹤跡はどうか」と言いながら、「でも、蹤跡を残さないというのもおかしいかなあ」とつぶやくと、「蹤跡にとらわれないと考えれば、それもいいのでは」という誰かの一言で、この言葉が採用されることになりました。
平成9年4月、私たちが嘱託研究員に採用されると、中祖先生は私にとって初めての上司になりました。ただ、私は卒業論文執筆の際に、中祖先生のご論文を参照して、そのお名前を存じ上げていたために、不思議なご縁を感じました。加えて、中祖先生のご専門が、私と同じくインドのバラモン思想であったため、心強くも近しく感じられる上司でもありました。
中祖先生は、実に穏やかなお人柄だったというのが私の印象です。若気の至りから、私が勝手な愚見を申し上げたり、先生のご意見に反論したり、時には先生が「禅研だより」に書かれた原稿に口出しをしようとも、決して怒られることなく、笑いながら「まあまあまあ」とお聞き下さり、時には私の意見を取り入れて下さることもありました。のみならず、たいていのことは私たちの判断を尊重し、自由に仕事をさせて下さいました。まさに理想の上司に恵まれたと感謝しています。
もっとも、いまでも少々申し訳なく思っているのが、平成16年の研修旅行の行き先を決めた時のことでした。中祖先生は、イタリアとともにドイツを訪れることを望まれたのですが、時間的な制約から、私たちはかなり強く反対しました。結果的に、バチカンでローマ教皇ヨハネ・パウロ二世の一般謁見に参列することもかない、大変印象深い旅行になったことで、お許しいただけたのではないかと、ひそかに願っています。
その反面、「ここぞ」という時には強い調子で決意を述べられることもありました。そのような時には、反論は認めないという迫力さえをも感じさせられたものです。現在の禅研究所の活動内容は、中祖先生の所長在任時にその基本形が整備されたと私は感じています。それが実現できたのも、先生の硬軟取り混ぜた統率力と決断のおかげだったのではないでしょうか。
しかし、そうした中でも最も印象深い思い出は、平成15年に中祖先生が副大学長になられた後のことでした。ご所属の文学部宗教学科(現在の宗教文化学科)の問題をめぐって珍しく愚痴をこぼされた時に、「先生は副大学長ではないですか」と申し上げると、「学部学科の中では、あくまで一教員であって、その分を越えてはいかん」とおっしゃいました。このお言葉は、中祖先生の謙虚なお人柄を表すとともに、私にとっては、今こそ胸に刻むべき大切な戒めになっています。
平成17年3月にご退職になられた後、私が先生にお会いすることは一度もありませんでした。平成27年に、禅研究所開所50周年を記念して『禅語』を刊行するにあたり、「禅研だより」所載の玉稿を転載したいとの思いから、お電話をしたのが先生とお話をした最後になりました。当初、中祖先生は「もう古い文章だから」と言って転載を固辞されたのですが、食い下がる私に対して、「わかった。君に任せる」とおっしゃって下さいました。ありがたいお言葉であるとともに、私としては、最初で最後の恩返しの機会だと感じていました。
中祖先生は、令和6年5月に遷化されました。そのことを喪中葉書でお知らせ下さったご家族へのお悔やみに対するご返信が、冒頭のお手紙です。そこには、執筆中は無口で気難しくなられたという、ご家族しかご存じのない先生のお姿も記されていました。
いま、私は中祖先生の謦咳に接し得たことを、懐かしさとともに、何よりの宝物と感じています。改めてご厚恩に感謝申し上げるとともに、先生の品位の増崇を祈念申し上げます。
(文学部教授)