菩提樹下における成道から入滅に至るまでの45年の釈尊の生涯は、ガンジス河中流域を中心とする教化活動に捧げられたといえます。当時、この地域はたいへん活気に満ちていました。東にマガダ、西にヴァッツァ(ヴァンサ)、北にコーサラ、そしてガンジスの支流ガンタク川の東方にはヴリジ(ヴァッジ)といった新興の商業都市が栄えていたといわれます。釈尊は、これらの地域での説法遊行の旅を繰り返しておりました。そして、最後の旅がマガダ国の首都ラージャグリハ(王舎城)からはじまります。この都の東北方に位置する鷲の峰(霊鷲山)に行脚の足をとどめた釈尊は、アジャータシャトル王(阿闇世王)の重臣への説法を終えて、弟子アーナンダ(阿難)を伴い、ナーランダ、パータリプトラなどの集落を経由しながら、商都ヴァイシャーりーにはいります。そこでたまたま雨期を迎えた釈尊は、この地で弟子たちとともに雨安居(あんご)の修行にはいります。
“安居”とは、まいとし定期的にこの地域に見舞う雨の季節に由来する仏教サンガの修行の制のことをいいます。インドのことばで、ヴァルシャ(ヴァッサ)といっています。地域によって若干の違いはありますが、だいたい5月または月中旬以降になりますと、毎日スコールのような雨に見舞われる季節がおとずれます。いわゆるモンスーン地帯に特有の季節です。すると、恵みの雨によって植物が生い茂るのとひきかえに、道はぬかるみ、水も混濁します。これは、三衣一鉢のほかは何も所有せず、各地を遊行する比丘の生活を、事実上困難なものにしてしまいます。そのうえ、路上に生息する毒虫や小動物が活発に動き回るため、比丘は生命の危険と無益な殺生を避けて、ほこらや樹木の下に滞在して、一定の期間、修行と学習に専念するわけです。年に1度約3ヵ月間この地域はこの雨の季節を迎えます。
このヴァルシャということばに、雨という意味と年という意味とがあるのは意味のあることです。この雨期を迎えると、前の雨期から1年が経過したことを意味します。わが国のように、年間を通じて晴雨の繰り返しを経験するのとはずいふん様子がちがいます。この季節、仏弟子としての修行と反省に専念する慣習が、教団のなかで制度として定められたわけです。わが国でも、禅宗などでこの安居の制が現在でも行われております。
すでに、齢80を数えた釈尊は、侍者アーナンダにつぎのようなことばを告げます。
わたしはもう老い衰えて80歳に達した。古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動くように、わたしの身体も革紐によってやっともっている。……………この世で自らを灯明とし、自らをよりどころとして、他をよりどころとせず、法を灯明とし、法をよりどころとして、他をよりどころとしてはいけない。
このように、よく知られている “自灯明法灯明´の訓戒を示して、いくたびかの遊行の地、ヴァィシャーリーの都への追憶の思いとともに、自らの死を予見したと経典は伝えています。
ヴァィシャーリーをあとにした釈尊は、いくつかの村や町を経て、パーヴァーの都に着きます。そこで鍛冶工の息子チュンダの供養を受けます。その際に釈尊が摂った食べ物が何であったかは定かではありませんが、
パーリ語の経典には“スーカラマッダヴァ”と記されています。それは柔らかい豚肉の料理とも、栴檀の茸料理ともいわれており、確かではありませんが、とにかく釈尊は、この料理を摂ったのち食中毒の症状に見舞われます。激しい痛みに堪えながら、北への道をクシナガラを目指して歩み続けます。そして、その地にほど近い河畔のサーラ樹(沙羅樹)の林に至って尽き果てます。侍者アーナンダを促して、サーラ樹のあいだに床を作らせて横になります。経典の一つは、サーラ樹が時ならざるに花開き、天空より香華が降りそそがれ、妙なる音楽が虚空に奏でられたと語っています。これは、いうまでもなく、聖者の死を荘厳する多くの仏伝に共通する装飾的な描写ではありますが、つぎのようなことばが経典作者(仏弟子)の手によって伝えられていることを知るとき、釈尊の精神が誤りなく仏弟子たちに承けつがれていることを確認することができます。
サーラ樹が時ならざるに花開き、天空より香華が降りそそがれ、妙なる音楽が虚空に奏でられようとも、このようなことで、如来は敬われ、尊ばれ、供養されるべきではない。比丘、比丘尼、優姿塞(うばそく)もしくは優婆夷(うばい)(在家の男女の信者)にして、よく法と随法(法にもとづく実践)とに住するものこそ、如来を敬い、尊び、供養するものであることを知らなければならない。
さらに、臨終をまえにした釈尊は、アーナンダたちの弟子を諭して、「教えを説かれた師は、もはやいないと思ってはならない。わたしが説いた教えとわたしが定めた戒律とが、わたしの死後にお前たちの師となるであろう」と告げて、最後のことばを示します。
さあ、比丘たちよ。お前たちに告げよう、「もろもろの現象は過ぎ去る(諸行無常)ものである。怠ることなく修行の完成に努めよ」と。
実にわれわれの現実世界のもろもろの事象には、何ひとつとして固定的なものはなく、刻々と移ろいゆくことを定めとしています。この現実の真相をしっかり受けとめて、揺ぎのない生き方に住することこそ釈尊の遺訓の眼目であります。原始経典のひとつ、『スッタニパータ』(経集)はつぎのような一節を伝えています。
無花果(いちじく)の樹の村の中に花を探し求めても得られないように、もろもろの存在の中に堅固なものを見出さないものは、この世とかの世とをともに捨てる。あたかも蛇が旧い皮を脱いで捨てるがごとくに。
蛇は生きているあいだにいくども脱皮するといわれています。人間の生涯も、これと同様に、いくたびも脱皮、こころの脱皮を繰り返していくことが必要です。自己に纒(まと)うさまざまなもの、怒り、貪欲、迷妄などを脱ぎ捨て、本来みずからに属していないものをいたずらに追い求めることなく生きることが、この世とかの世を捨てることの真意です。これが“涅槃”ということです。わたしたちも日々の生活の中に涅槃の真意を生かしていくこと、すなわち精神の脱皮、心の脱皮を重ねていくことが必要です。”この世”(世俗)を捨てることのなかに多くの宗教の意向があるとするならば、釈尊の宗教は、ひたすらに現世の苦悩を厭い離れて楽園を追い求めることではなく、“この世とかの世とをともに捨てる”ことが肝要であると、この一節は教えています。
釈尊のほぼ半世紀に及ぶ説法の内容は、時にふれ所により万別でありますが、その基調とするところは、法(ダルマ)の体得、体現ということに集約されると思います。法とはこの世の如実(ありのまま)の真理真相にほかなりません。そして、この世のあらゆる現象に固定性を認めないことです。われわれは、ややもすれば目前の事象に心を奪われ、過ぎ去ったものにこだわり、また未だ到来しないことに一喜一憂することを常としがちです。そのため、苦悩の大海に浮沈することを余儀なくされています。すなおに、もろもろの存在の中に堅固なるもの(固定性・常住性)をみることなく、この世とかの世とをともに捨て去って生きていかなければならないのです。”もろもろの現象は過ぎ去る”という釈尊の最後の遺戒をじっくりと味わってみることが必要です。
ひとが一箇の求道者としての道を歩みはじめる動機は、それぞれに個性的です。釈尊にはじまる仏教の伝統は、インド・中国の思想風土に洗練されつつ、わが国にもたらされました。しかし、それは中国からの直輸入のかたちで受け容れられ学問仏教として隆盛の途を辿ります。とくに平安期に至って、比叡山はそのメッカとして学問仏教の権威を確立します。法然をはじめ鎌倉新仏教の祖師たちは、競ってここに登って仏教の教学を究めていきます。当時の比叡山は、多くの学匠たちが教学の研鎮に心血を注いでいましたが、そのなかには当代の名僧知識となって天下に名声を馳せ利達を得ることに汲々としている僧たちも当然いたわけです。そのような状況のなかで、道元も教学の研究に没頭していきます。その過程で、道元は大いなる疑問に直面することになります。
「顕密二教ともに談ず。本来本法性(ほんらいほんぽっしょう)、天然自性身(てんねんじしょうしん)と。若しかくの如くならば、三世の諸仏、甚(なに)によってか更に発心して菩提を求むるや」(『建撕記』(けんぜいき))という大きな疑問に逢着いたします。われわれが本来すでに仏性をそなえているならば、どうして三世の諸仏たちが発心してさらに悟りを求める必要があるのかという疑問です。やがて道元は、叡山を下り、京都、建仁寺の栄西やその高足、明全の門を尋ねますが納得がいきません。その後、師、明全に従って入宋して求道の遍歴を重ねます。そして、2年ののち、天童山の如浄禅師に相見する機を得ます。
師、如浄のもとでの坐禅弁道のなかで、道元はついにひとつの転期を迎えます。如浄に相見した同じ年の夏安居(げあんご)の終りをつげるころ、師は暁天(きょうてん)の坐禅のとき坐睡の雲水を叱咤して、「参禅は須(すべから)く身心脱落なるべし、只管に打睡して什麼を為すに堪へんや」と大喝して警策(きょうさく)を振います。この師のことばを耳にした道元は、積年の大疑を払拭します。ただちに方丈に上って師の前に「身心脱落」の悟境を突きつけます。師はついに偽りのないことを確認して印可の証を与えます。道元は、“ここに一生参学の大事”を成就したのです。
4年の中国留学から帰国した道元は、宇治興聖寺において、もっぱら“坐に生きる”ことを標榜する「只管打坐」の曹洞禅を打ち立てていきます。やがて都を避けて、越前の大仏寺(後の永平寺)を畢生の道場として、禅の参究に生涯を捧げます。「学道は須(すべから)く吾我を離るべし」、「吾我を離るるには、無常を観ずる是れ第一の用心なり」などの訓戒を会下の僧に繰り返す道元の姿勢の中に、釈尊の伝統が脈々と生きているということができます。わたしたちも同様に、吾我を離れ無常を観じて、“精神の脱皮”こころの脱皮”を繰り返していかなければならないことになります。