愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅滴  平成14年度

「不落因果」と「不昧因果」(著・所長 中祖一誠)

 21世紀はこころの時代であるといわれています。たしかに、前の世紀には2つの地球的規模の大戦をはじめとして、大小さまざまな国際間の紛争を人類は経験してきております。この100年間から戦争をみなかった時期を数え上げるとすると、はたしてどれだけの年数があるでしょうか。歴史の表面に記録を留めなかったものまで含めたならば、平穏無事の期間などほとんどなかったといってもよいのかも知れません。あるいは、このような仮定の問いそのものが無意味であるともいえます。この世紀がこころの時代であるということばには、人類の平和への強い期待、願望のおもいが込められているといえます。

 一般的にいって、争いの根底にはつねに、正邪、善悪、是非といった”あれか、 これか”という二者択一の判断が付きまといます。そして、それはグローバルな国際的規模の場合はもちろんのこと、小規模な体制や階層内の紛争や、またわたしたちの日常的レベルの生活の場においても同様です。そして、時にはそれがもたらすある種の緊張の高まりによって適度な心理的充足感に浸ることがあることも事実です。次元の違いはそれぞれですが、わたしたちの日常生活はさまざまな価値の取捨択一を通して、ある種の統一がほどよく維持されているという一面があります。しかし多くの場合、この統一が破られ、おおきく逸脱することも事実です。二者択一の判断の背後には自己中心的な思い込みが覆蔵しています。”欲望”といわれるものがそれです。仏教の側からいえば”我執”、”煩悩”ということになります。適度な統一がつねに矛盾なくわたしたちの生活を円滑に維持してくれたら問題はないのですが、実際にはこの期待がつねに破られてしまうことは、だれしも経験するところです。

 一見、平穏無事な統一のある生活も些細なことからもろくも崩れてしまいます。また、このような際立ったかたちをとらないまでも、曖昧模糊とした気分に沈み込むことも、現在では珍しい現象ではありません。平穏な生活に浸っていながら、こころの片隅に”何となく物足りない、落着かない”といったような不安定な気分に襲われることは、多くのひとの経験するところです。このような傾向は、現代の複雑な生活様式のなかで、ますます顕著になってきています。しかし、この現象はいまになって生まれたわけではなく、古く人類の精神史の歩みとともに存在していたと思われます。つまり宗教の起源と軌を一にするといえますが、その顕在化は、近代以降の産業構造の変革とそれに伴う社会構造に起因することは否定しがたい事実です。

 19世紀前半に生きたデンマークの実存主義者キェルケゴールの指摘する”不安”の概念や、20世紀中頃のアメリカのプラグマティスト、デューイのいう”何かよからぬもの(Something Wrong)”といった病的な気分が注目されるようになったことが、現代の病める意識をよく反映しています。つまり、現代は確たる生きる指針を見出しがたい時代であるといえます。技術文明の飛躍的な進歩によって、人類は過去に手にすることのできなかった便利さや快適さを享受することができました。ところが、その代償として、他方では得体の知れない”不安”のまっただなかに置かれていることも否定しがたい事実です。科学のもたらした恩恵に浴しながらも、落着きのない生活を余儀なくされているのが現代の実像であるといえます。

 宗教の内実は別として、仏教やキリスト教、そして最近ではイスラム教もわたしたちの視野に入ってきましたが、これらの既成宗教から近年わが国で顕在化してきた先鋭的なカルト宗教集団に至るまで、宗教がひとびとの関心を集めていることが現代の病弊をよく示しています。つまり、現代は生きることが難しい時代であるということができます。

 わたしたちの日常の生活には二つの次元を異にする局面があります。その一つは、日日の生活の場において遭遇する現実のなかに相応の価値を見出して充足していく日常的な世界です。いま一つはこころのなかに人生の意義を探求していく価値的な世界であります。前者は功利的、合理的に生活を享受する世界であり、後者は没功利的にこころの豊かさを追究する世界であります。霊性の世界といってもよいかも知れません。人間はこの二つの世界のあいだで揺れ動いている存在ということになります。ひとは生涯を通じて前者の生き方に留まることはできません。機に応じて二つの世界を往来しているのが現実の姿です。世の多くの宗教が成立する根拠がそこにあるといえます。”貧しきものは幸いなり、天国は近きにあり”とか”諸行無常、一切皆苦”のことばが真実味を帯びてくるのもここにあります。

 エーリッヒ・フロムという社会心理学者が、20年あまり前に、『持つことか、あることか』(To have or to be)という書物を著しています。「持つ様式」の生き方と「ある様式」の生き方の違いを論じて、現代がまさに「持つ様式」の生き方の時代であるとして、「ある様式」の生き方を推称しています。大量消費社会にどっぷり浸りきって、”モノ”を所有することにあくせくしている現代の状況を批判して、この世に”いかにあるか”を追究することに意義を見出すべきだといっています。イエスしかり、ソクラテスしかり、老子しかり、なかんずく無執着、無我を説くブッダこそ、この「ある様式」の生き方の典型として賞賛しています。このように、フロムは”モノ”を所有することを追究する生活享受型の生き方に対して、価値追究型の「ある様式」の生き方こそ、現代の”ヒズミ”を克服する道であることを提唱しています。

 ところが、もしわたしたちがこの二様の生き方のいずれかを選びとって、一方的に価値の是非を問おうとすると、新たな差別のなかに堕ちてしまうことになります。所詮(しょせん)、わたしたちは、この二つの様式に完全に決別することはできません。”ある様式”の生き方を勧める宗教も、時としてこの陥穽(かんせい)に迷い込むことがあります。つまり、山のかなたに幸せを尋ねて涙して空しく帰路に着く轍(てつ)を踏むことになってしまいます。人生の不幸は、この二つの様式の世界を二つの別々な世界と思い込んでしまうところにあるといえます。この二つの世界も一つの真実の世界に根をもっていることに気付く必要があります。そこで、ひとつの例話として、中国の禅話にでてくる「百丈野狐」の逸話を紹介しましよう。

 唐代の禅匠として知られる百丈懐海禅師(749〜814)にまつわるつぎのような問答が伝えられています。これは『五灯会元』という書物のなかに出てきます。百丈山に住する百丈禅師が、禅林の日課にしたがって、いつものように説法を終えて帰ろうとすると、その法座に常連として説法を聴いていたひとりの老人が、師(百丈)の前にすすみでてつぎのように問答をしかけます。わたしは、大昔この山の和尚として修行をしておりました。ある時に弟子のひとりが、「大修行底(てい)の人、還(かえ)って因果に落つるや、否や(よく修行のできた人でも因果の法則を免れることはできないでしょうか)」と問われて、「不落因果(因果に落ちることはない)」と答えました。そのとたん、わたしは狐の身に落ちて五百の生涯を生まれかわり死にかわりして、今日までまいりました。どうか師の力のあることばによって狐の身から救いだして下さい、といって再度「大修行底の人、還って因果に落つるや、否や」と百丈に問いかけます。すると百丈は言下、「不昧因果(因果を昧(くらま)さず)」と答えます。この老人は即座に大悟したと述べています。この”不昧因果”ということは、因果の法則を胡魔化さずそのまま正しく受け取るのが肝心だ、ということを教えていると理解しなければならないと考えます。野狐の姿に堕ちた老人は、因果の法則を自分の外に置いて、その因果の理(ことわり)に自分が堕ちるか堕ちないかを未だ意識していることになります。あるいは、みずからの修行の効果として”不落因果”というプレミアムを期待しているとみることもできましょう。「不落因果」という答えのなかにそれがうかがえます。語録には、この問答のあと、百丈山の裏山に一匹の野狐の屍骸が横たわっていて、百丈がていねいにこの狐を葬つたという意味深長な”落ち”までついています。

 人間という存在は、日常的な行為においても道徳的な行為においても、その行為の主体であるわけですが、行為とは別に独立した主体というようなものがあるわけではないのです。行為そのものが主体であります。人間的存在という自我がまずあって、それに行為とか価値などが、あたかも付着物が身体に着くようにまとわるのではありません。古代インドにはそのような考え方もたしかにありましたが、”無我” の立場に立つ仏教はこのような考え方はいたしません。行為そのものが人間的存在の証(あか)しであります。行為というのは、仏教のことばでは”業”といっております。さきに述べました古代インドの考え方のように、なにか得体の知れない業という付着物が自分にまとわりつくということではありません。ひととしてこの世に生を享けると同時に、業そのものとして生きるのが人間の存在であります。業に繋がれているとか、業に引かれるといういい方がよくされますが正しくありません。業と人とは一つであるというべきであります。人間は業そのもので、そして、その事実に対する自覚を持っているところに人間の苦しみというものがあるわけです。そして、この苦を超克するところに人間の特権があります。また、この特権のゆえに自由、解脱の追究という課題が意味をもってくることになります。「百丈野狐」の話をじっくりと玩味してみる必要があります。

 古仏道元のことばに、「花は愛惜に傲り、草は棄嫌に生う」と述べられています。花はだれにとっても美しく咲き誇っているのが好ましいに違いありません。しかし、いつまでも美しいままであり続けることはできません。いつか凋み朽ちます。また、庭に生える草は汚く見苦しいけれども、どんどんはびこっていきます。すべて自然の理にしたがって花はひとの惜しいという思いに関係なしに散り、草も容赦なしにはびこっていきます。この道元のことばも「不昧因果」の理と同じことを教えていることになります。「因果はれき年(れきねん)として私なし」という道元のことばがあります。”持つ様式”の生き方と”ある様式”の生き方の根底にはたらく理法をしっかりと見据えなければ、道はいつまでたっても開かれてこないということになります。

 (文学部客員教授)

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