愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅滴  平成15年度

学道の用心(著・所長 中祖一誠)

 『学道用心集』は、道元禅師が中国(宋)から帰朝されてからそれほど年月を経ない時期に書かれたものです。同じように帰朝後に著わされたものに『普勧坐禅儀』があります。この書物は、道元禅の宣揚の書としての高い格調をもつ坐禅の指南書です。『学道用心集』の方は、学道に志す弟子たちへの垂訓といえる十箇条からなる学道入門の心得書という性格をもった書物です。

 この用心巣の旨頭、第一条に「菩提心を発すべきこと」という箇条が掲げられています。つづいて、「右、菩提心とは、多名一心なり。龍樹祖師の曰く、唯だ世同の生滅無常を観ずるの心も亦だ菩提心と名づくと。然れば乃ち暫く此の心に依るを、菩提心と為すべきか」と述べられています。学問に志すものは、まっさきに「菩提心」を発さなければならないといっています。「菩提」というのは、古代インドのことばの"ホーディ"を音写したもので、意味合いとして、「道」とか「知」、「悟」、「覚」などと訳されています。

 しかし、ここで早速、わたしたちは蹟いてしまいます。いつたい何の道なのか、何を知り、何を悟るのか一向に分かりません。一応のことばの意味ということになれば、真理に目覚めること、欲望を克服して事物の真相をありのままに知ることなどの意味として理解できます。『大日経』に説かれる「如実知自心」(如実に自らの心を知る)といったことばが菩提心ということになるでしょう。要するに、我欲を捨て去って真実のあり方を見出すことがこのことばの内容であるといえます。

 この用心集の最初の句に続いて、「右、菩提心とは多名一心なり」と述べられます。菩提心にはさまざまな名称があるけれども、根本になるのは「一心」である。そして、その一心というのは、「唯だ世間の生滅無常を観ずるの心」のことであると規定しています。そして、この拠りどころとして龍樹菩薩の説を挙げています。龍樹菩薩という方は、2世紀頃に南インドに生きた大乗仏教の著名な論師(学僧)です。『大智度論』百巻という厖大な般若経の注釈書や『中諭』という空思想の諭書を著わして大乗仏教の教学体系を築いた学憎として知られている方です。用心集では、この『大智度論』の所説を引用して菩提心を規定したわけです。釈尊の滅後、仏教の教学は次第に整備されていくわけですが、龍樹の生きた時期には、「三十七菩提分」として、菩提心が細分化されていました。その体系のなかの四念処(4つの観想法)のひとつである心念処という観想において、心に無常を観察することを勧めています。禅師は、龍樹の所説を採用して世間の無常性を深く観察することが菩提心の核心であることを提唱したことになります。そして、この菩提心を「道心」、道を求める心ともいっています。しかし、ここで再び、わたしたちは蹟いてしまいます。「道」というものが分からないのにどうして求めることができるかという疑問に突き当たります。まさしく循環論法のジレンマに落ち込んでしまいます。

 この疑問を解くためには、以前にも紹介しました「本来本法性(ほんぽっしょう)、天然自性身(てんねんじしょうしん)」という道元禅師の若き日の疑団が参考になると思います。比叡山で修行していました道元は、ひとつの大いなる疑問に逢着します。それは、「顕密二教、倶に談ず。本来本法性、天然自性身と。若し、かくの如くならば三世の諸仏、甚(なに)によってか更に発心して菩提を求むるや」という疑問でした。顕密二教というのは、顕(あきら)かに説かれた教えと秘密に説かれた教えのことです。顕教とは、衆生の教化のため仏(釈尊)が衆生の性質・能力に応じてことばで説き示した教えのことです。そして、密教とは、われわれ人間の現実存在が絶対の存在である大日如来と本質的に異ならないことを自覚する教えのことです。この区別は弘法大師空海に基づくとされますが、要するに、ここでは、仏教の教えでは、顕密二教、一様にわれわれは本来すでに仏性を具えているのに、どうして三世の諸仏は発心して悟りを求める必要があるのか、という疑問です。

 人間が生れながらにして法性を具えた存在であるという教学上のテーゼと、法性を具えた人間がさらに修行を重ねて行かなければならないという実践上の命題が一己の人間においていかに会通(矛盾なく一致すること)しうるかという宗教の本質にかかわる疑問に逢着したわけです。道元は、そこで一種の自家撞著(どうじゃく)に陥ってしまいます。
これを機縁として中国への留学を志します。そして、後年道元の禅風の根幹をなすことになります「修証一等」、「只管打坐」の課題を参究していくことになります。

 「学道用心集」の冒頭が「発菩提心」で始まり、「世間の生滅無常を観ずる心」と規定されるのも、禅師みずからの主体的な大疑現前の体験から滲みでたものであるといえます。「学道」の用心としてここに掲げられる「学」というのは、わたしたちが理解している学問とはかなり異質なものであるということが分かります。道元の考える「学道」の真意を理解するために学問の本質をいちど問い直してみる必要があります。

 ここで学問論などといった改まった問い方は、徒らにことを紛糾させることになりますから立ち入らないことにいたしますが、ひとつのことは触れておかなければならないと思います。学に志す道にもさまざまなかたちがあるということです。身近なこととして、わたしたちが現在かかわっている学問があります。これは、明治期当初以来、欧米諸国から移入してきました理性または科学に根拠をおく学問の形態です。約100年前から、わが国の知識人たちは積極的にこれを採り入れて、近代日本の国造りに大いに貢献してきました。なかでも、日本のヴォルテールと称せられた福沢諭吉の功績はきわめて大きかったといえます。かれは、従来の漢学や歌学を空疎にして有閑的な学問として斥け、「人間普通日用に近き実学」の意義の重要性を唱えました。
もっとも福沢のいう「実学」が学問の実用性や日常生活との結合というだけに尽きるということであったならば、すでに江戸期の宋学や石田梅岩の心学などに先例を見出すことができます。しかし、そこでの実学は、幕藩体制の下での処世の学としての性格が濃厚でした。福沢における実学は、これと大いに異なっています。学問の根拠を「数理学」(物理学)において、近代自然科学の成果を産み出す(精神)に大きな意義を見出したところにその実学の特徴があります。

 21世紀を迎えた今日、科学技術の進歩や知識の増幅は往年の比ではありませんが、本質的にはこの実学の路線上にあるといえます。わたしたちは、少なくとも物質的には格段の豊かさを享受しています。しかし、代償としてその弊害をも現在甘受しなければならない状況にあることも事実です。近代文明全般にわたって、挫折の実感を切実に経験しています。このような危機的状況を打開する道を摸索する必要性が次第に高まりつつあります。そこで、かつて福沢が「実学」の転回を図ったのに倣って学問を問いなおしてみる必要があります。

 再び道元に立ち返ってみます。道元のいう「学道」とはどういうものでしようか。もちろん、道元の生きた時代は現代のような科学的な世界観と無縁であります。生活に役立つ功利的な意図は道元のいう[学道」のなかには存在しません。用心集の冒頭のことばは、「発菩提心」で始まります。菩提心を発すことが学道の眼目であるといっています。「学道」とは、道元においては「学仏道」であります。つまり、仏道を学ぶということは、「学仏祖道」-仏祖、釈尊の説いた道を学ぶことを意味します。そして、さらに釈尊の説いた仏法を正しく受け継いできた「仏々祖々」の道を学ぶことをも含みます。仏祖、釈尊の説いた教えだけが仏道であるならば、二千数百年前の聖者釈尊を頭の中で理解することだけでよいことになります。道元はこのような態度を語気を強めて叱責します。「入唐の論師、皆教網(教えの網)に滞りし故なり。仏書を云うと雖も仏法を忘るるが如し。其の益是れ何ぞ。その功終に空し」と述べて、「学道の故実(学仏祖道の根本)」を知らないからだと教えています。真理は、仏祖から仏祖(弟子) への継承を通して、はじめて学ぶことができることを強調します。

 これと同じことを、中国の学問の祖である孔子も残しています。論語の中にも、有名な「述べてつくらず」ということばがでてきます。つまり、自分は、先人の説いた道を祖述するだけであって、決して新しいことを説いたのではないといいます。これは継承ということの重大な意義を認めることを示しています。釈尊の場合にも、これと同様な伝承があります。釈尊以前に「過去七仏」と呼ばれる仏祖が次々に現れて真理を伝えて、釈尊がこれを受け継いだという伝承です。また、釈尊は「古道」を発見したという伝承もあります。これは、世にいう財度の相続とか、家督の世襲とはまったく違います。わたしたち現代人は、ある意味で進歩史観にとらわれているといえます。先人の成果に新しい成果を積み垂ねることが学問であると考えています。これが、いわゆる「学問」と称せられるものです。一方、「学道」は仏祖から仏祖(弟子)へと継承された「道」を学ぶことを意義します。

 道元が、比叡山における修学期に抱いた「本来本法性、天然自性身」という疑問に終止符を打ったのは、師如浄との山会いでした。師如浄を介して仏祖の「道」を体得したことになります。『学道用心集』の開巻第一の箇条として、「菩提心を発すべきこと」が掲げられていることはすでに述べました。そこで、菩提心を「世間の生滅無常を観ずる心」と規定しています。つまり、「学道」における「学」というのは、生死流転の現実世界においていかに生きていくべきかを探求することにほかならないということになります。そして、このことは、二千数百年前に菩提樹下において正覚を達成した釈尊の原体験に、わたしたちも立ちかえって追体験することにほかなりません。発菩提心の究極の課題がこの点にあることを『学道用心集』は説き明かしていることになります。この探求の道は"自己"を放擲するとき開けてくるといえます。「無常を観ずる」ということは、「発菩提心」の別称ということにほかなりません。

 (文学部客員教授)

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