愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅滴  平成17年度

仏教の修行法と只管打坐(上)(著・所長 大野栄人)

 ●一.はじめに

 周知のように、釈尊は六年間に及ぶ苦行を捨てられネーランジャラー河(尼連禅河)で沐浴され、村娘のスジャーターの捧げる乳粥(パスヤ)の供養を受けられ、体力を回復してミブダガヤーに赴かれました。

 釈尊は、アシュヴァツタ樹(菩提樹)の下に柔らかいムンジャ草という乾燥した草を敷き、その上に結跏趺坐(降魔坐)をされ、悟りに達成するまでは、決してこの座を立たれないという堅い決心をされたのであります。ヴェーサーカ月(十二月)満月の日(八日)の明け方に、正覚を成就されたのであります。

 仏教の修行の根拠は、釈尊の成道にあります。釈尊の説かれた八万四千の「法」(理)を学修した上で、「修行」(事)によってのみ釈尊と同等の正覚に到達できるというものであります。

 道元禅師は、釈尊以来の正伝の仏法として「只管打坐」の修行を修行法として考案されたのであります。

 大胆な構想ですが道元禅師の正伝の仏法である「只管打坐」が、果して正伝の仏法であるのかどうかを検証することにしたいと存じます。

 そのためには、インド仏教において、如何なる修行が実践されていたかを、まず明らかにしなければなりません。

 ●二.三十七道品の実践修道

 インド仏教の修行法は、「観の修行」と「止の修行」に大別することができます。

 「観の修行」は、色界定といわれ、心が五官の欲や不善から離れて、物質や肉体に対しても、それを純粋な色(物質)として眺め、そこに欲望などによる色眼鏡が加わらなくなった心の状態であります。

 その時、心は一点に集中し、他の雑念が入ることなく、その対象をありのままに正しく観察することができます。心一鏡性といわれます。

 「止の修行」は、無色界定といわれ、心が静止して、何ものにも心を向けず、色(物質)的な考え方もなく、心がどこにも向けられず、何ものにもとらわれることなく、真実を適切に判断できる状態であります。

 この「観の修行」と「止の修行」を併用することによって、日常生活において、明鏡止水といわれるような心の状態が、習慣的に得られるというものであります。

 煩雑ではありますが、釈尊以来修行されていた修行法を具体的に究明していくことにしたいと存じます。

 原始仏教経典には様々な実践修道の教えが説かれておりますが、部派仏教時代において、「三十七道品」(三十七菩提分法)としてまとめられた七種類の修道説が代表的な実践論です。「三十七道品」の実践修道を具体的に明らかにしていきたいと存じます。

 「三十七道品」は、(1)四念処(四念住)、(2)四正勤(四正断・四意断)、(3)四如意足(四神足)、(4)五根、(5)五力(6)七覚支(七覚分・七覚意・七菩提分)、(7)ハ正道(ハ聖道)の七種類の実践修道をいいます。具体的に一々の修行法を究明していくことにしたいと存じます。

 (1)四念処

  1. 「身念処」は、この身体は不浄であると観じる内観。
  2. 「受念処」は、感受は苦であると観じる内観。
  3. 「心念処」は、心は無常であると観じる内観。
  4. 「法念処」は、すべての事象は無我であると観じる内観。

 身を不浄、受を苦、心を無常、法を無我なりと観じることによって、浄・楽・我・常の四?倒を打ち破る修行実践の方法です。

 (2)四正勤

  1. 「律儀断」は、まだ生じない悪を新しく生まれさせないように動める状能。
  2. 「判断」は、すでに生じた悪を断とうと勤める状能
  3. 「随護断」は、まだ生じない善を生まれさせるように勤める状態。
  4. 「修断」は、すでに生じた善を増大させるように勤める状態。

 これを「断」というのは、このような精勤努力が、怠慢な心である悪心を断ち、善に向かう心を確立するからであります。

 (3)四如意足

  1. 「欲如意足」は、すぐれた禅定を得ようと欲する状態。
  2. 「精神如意足」は、優れた禅定を得る努力の状態。
  3. 「心如意足」は、心を収め優れた禅定を得ようとする状態。
  4. 「思惟如意足」は、智慧をもって思惟観察して擾れた禅定を得ようとする状態。

 これらは、それぞれ欲願と努力と心念と観慧という力によって引き起こされた禅定で、その禅定を所依として、種々のはかりがたい妙用である神通力(如意)を現わす。四種の不可思議なはたらきを得る修行である。

 (4)五根

 感覚器官である眼・耳・鼻・舌・身の五根は、視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚という機能をもっています。五根は、外界の対象を捉え、また心の中に五識の認職作用を引き起こすことにすぐれたはたらきがあります。五根のはたらく方向を己心中に向ければ、解脱に至るための五つの力が具わり、悟りの智慧を得ることができる。すなわち、

  1. 「信根」は、心を澄んだ浄らかなものにするための内観。
  2. 「精進根」は、心を浄化するための精神的努力の状態。
  3. 「念根」は、対象に向かう想いを留め、他の想いを止めて心を動乱させない観想。
  4. 「定根」は、禅定中に心を散乱させない状態。
  5. 「慧根」は、心を感覚器官から智慧に転換する状態。

 これらの五根は、生起する煩悩を抑えて、正しい悟りの道に赴かせるのにすぐれたはたらきがあります。

 (5)五力

 悪を破る力があり、悟りへ至る五つのすぐれたはたらきをいいます。すなわち、

  1. 「信力」は、仏に対する堅固不抜の帰依である信抑の力を堅持すること。
  2. 「精進力」は、悪を止め、善を修するための精神的努力をすること。
  3. 「念力」は、じっと思い続ける憶念の力の状態。
  4. 「定力」は、禅定の力。
  5. 「慧力・智力」は、見思惑という理智と情意の煩悩を断滅し、儡小の知恵を破して、真実の無漏の智慧をもたらす力を持つ状態。

 (6)七覚支

 悟りの智慧を助ける七種の修行法をいいます。すなわち、

  1. 「念覚支」は、心に明らかに憶い留めて忘れない状態。
  2. 「択法覚支」は、智慧によって教えの中から真実なるものを選び取り、偽りのものを捨てる状態。
  3. 「精進覚支」は、真実の正法を選んで専心に精励し続ける状能。
  4. 「喜覚支」は、真実の教えを得て歓喜する状態。
  5. 「軽安覚支」は、身心が軽快で安穏であり、善根を増長する状能。
  6. 「定覚支」は、禅定に入って心を散乱させない状態。
  7. 「捨覚支」は、対象へのとらわれの心を捨て、心が一方に偏らないで平等に保たれ、平均している状態。

 心が沈む時は、「択法」「精進」「喜」の三覚支で諸法を観察して心を励ます。心が浮動する時は、「軽安覚支」を用いて身・口の過を除き、「捨覚支」を用いて観智を捨て、「定覚支」を用いて禅定に入り心を静める。

 (7)八正道

 釈尊が最初の説法において、楽欲と苦行とのニ辺・両極端を離れた中道として説いたのも「八正道」であるといわれています。

  1. 「正見」は、仏教の真実である苦・集・滅・道の四諦や、無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死の十二縁起の理法などを自覚した正しい見解や理想をいう。
  2. 「正思惟」は、正しい意業で、心のおこないを正しくして、無我に基づいて正しく四諦や縁起の理法を思惟すること。
  3. 「正語」は、正しい語業で、無我の立場から真実のみを語ること。
  4. 「正業」は、正しいしい身業で、戒律を守り、身心のおこないを正して、悪業をつくらないこと。
  5. 「正命」は、身・口・意の三業を清浄にした正しい生活や生活方法をいう。
  6. 「正精進」は、正方便ともいわれ、堅固な自我意識を否定するために、正しい努力を継続すること。
  7. 「正念」は、「正精進」の意識的な方面で、「正見」という目的を常に心に留めて忘れないこと。
  8. 「正定」は、心を正しく統一し、対象に向けない正しい禅定に基づく修行生活を継続していくこと。

 正しい見方の「正見」は、それ以下の七正道の目的であり、「正思惟」「正語」「正業」の三正道は、身・口・意の営みを正しくすることであり、正しい生き方の「正命」は、「正思惟」「正語」「正業」を統合したものであり、「正精進」「正念」「正定」べ庄しい修行の営みであり、この四種に大別することができます。

 この八正道は、人々を迷界の此岸から、悟界の彼岸へ渡す力をもっています。

 これに反して、邪見・邪思・邪語・邪業・邪命・邪精進・邪念・邪定を八邪といわれ、仏教で否定される自我意識を生ずるものでありますから、徹底的に否定されます。

 なお、仏教において「正しい」ということは、次の条件を具えていなければなりません。すなわち、

  1. 如・如実であり、あるがままの離妄想であること。
  2. 二つの両極端を離れた中道の離辺であること。
  3. どこまでも平等であって、どこにも当てはまる普遍妥当であること。

 要するに、原因と結果とは必ず関わりあうという縁起の理法を守り、縁起の理法に従うのが「正」であり「善」であります。この法を無視して背くのが「邪」であり「悪」なのであります。

 以上が、「三十七道品」であり、この七種の修行法は、仏教の至高の目的であり悟りの境地、すなわち涅槃を実現するための智慧を得ることを終極的な目的として定められたものなのです。

 「三十七道品」を「観の修行」と「止の修行」に類別することにします。「観の修行」は、四念処・四如意足・五根・八正道であり、「止の修行」は、四正勤・五力・七覚支であります。もちろん、観と止の修行は多くの場合、併用されます。

 ●三.道元裡帥の三十七道品観

 道元禅師は、七十五巻本『正法眼蔵』第六十に「三十七品菩提分法」を説示されています。この三十七道品の七種類の一々について具体的な講説がなされています。

 道元禅師は、「いわゆる三十七品菩提分法の教行証なり」として、三十七品の菩提分法を説かれたのは、釈尊その人であると教示されています。とくに強調されるのは、この法があくまでも出家者を対象としたものであるとして、入宋当時の僧侶の在り方を徹底的に批判されます。

 菩提心を発こして出家した以上、全身全霊をもって正伝の仏法の具現者として生きることを、我々に教示されます。

 さらに、三十七品菩提分法は、仏祖の眼目であり、鼻の穴であり、皮肉骨髄であり、手足であり、面目である。歴代の祖師も実践されてこられた。三十七品菩提分法は、坐禅によって実現されるべきである、と正しい説示がなされています。

 (文学部教授)

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